「一粒の麦、地に落ちて死ななければ」 2020年9月27日

       召 天 者 記 念 礼 拝

ヨハネ12:24~26  招きの詞ガラテヤ5:22~25

 

 皆さま、お早うございます。松岡澄子姉のご家族の皆様、よくこの礼拝にご出席下さいました。感謝申し上げます。今日はこの教会の会員だった方々を中心に、教会に来ておられる皆様のご親族で、天に召された方々を覚えて記念する礼拝です。お名前を週報に載せています。それ以外の方々も、皆様で覚えて下さいます様に。

 今年の梅雨は大雨で、被害も出ましたし、夏は猛暑で大変でした。でも、昔から「暑さ寒さも彼岸まで」と言われていました。春の彼岸と秋の彼岸です。ご存知の通り、彼岸とはあの世の事で、この世を「此岸しがん」と言います。どうして彼岸は春分の日と秋分の日を中心とする日になったのでしょうか。

 

 春分、秋分の日を英語で、springスプリング / autumn オータム equinox エキノクスと言います。equiエキはequalイクオール (等しい)の意味で、nox ノックスは「夜」、つまり、夜が昼と同じ長さだという意味からです。しかし、正確には、この両日、太陽が真東から昇り、真西に沈む日なのです。古代の人々は、太陽神の宗教を、世界中のあちこちで、夫々関係なく信じていました。そして太陽が地平線から昇り、沈む位置を正確に観測していました。太陽が昇る位置の一番右端と一番左端が在って、そこを繰り返して往復している事を知っていました。その一番右端を「東」としました。古代文明は、インド、インカ、マヤ、エジプトなどたくさん在ります。夫々に関係なく、東西南北を正確に観測していました。山の上の文明マチュピチュもそうですし、砂漠の平原のエジプト文明もそうでした。春分・秋分の日に、太陽はスフインクスの肩から昇るそうです。アイルランドはずっと北の方で、寒いので、冬が一番長い冬至を正確に知っていました。この日の朝10数分だけ、陽が射してくるお墓が在ります。翌日から、夜が短くなって、春が来ると喜んだのです。クリスマスも北欧のこのお祭りと関係が在りそうです。春分の日太陽は、真東から昇り、その次の日から、北半球では左側の北の方から昇るようになり、昼の時間が日に日に長くなり、そのお陰で、気温が上がり、生物が育つ季節として、命の世界を思いました。そして一番左端(最も北側の太陽の転回点・夏至)になり、そこから昇るのが右側(南)の方に戻り、秋分の日を境に昼が短くなり、寒くなって草木が枯れて、死の世界、つまり死んだ人々がそこへ行くと思いました。あの世の世界を想像したのだと思います。エジプトでは、西はナイル川の無効ですから、あの世に行くのに、舟が必要だと思い、王の墓には、小舟が入れて在ります。冗談ですが、私も死んだら、あの世には舟で行きたいと思っています。そして一番右側(南)の転回点、つまり冬至まで来ると、そこからまた、左側へと太陽が昇る地点が変ります。春分の日を目指します。

 

 今朝の聖書の「一粒の麦」の話はよく知られています。この麦の例えは分かり易い気がします。しかし、その次の25節「自分の命を愛するものはそれを失うが、この世で自分の命を憎むものは、それを保って永遠の命に至る」という言葉は、私も上手く説明が出来ません。しかし、歴史を見ますと少し分かる気がします。ご存知のようにキリスト教は、非常に迫害されて来ました。日本でも禁止されて迫害されました。隠れキリシタンの話が今でも語られます。キリスト教の初期、古代ローマ帝国でも同じで、大迫害を受けました。皇帝ネロによる紀元64年の迫害は有名です。ネロはローマ市内の大火災の原因をキリスト者のせいにして、迫害をしました。ヨハネ福音書は紀元100年頃書かれたとされています。つまり、迫害の真っ只中です。この迫害と関係ある言葉だと思います。命を助けようとして、信仰を棄てる者は、逆に命を失い、信仰を守って殺されても、永遠の命を得ると、教え励ましたのではないでしょうか。

 

 それに続く26節、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしの居る所に、わたしに仕える者も居る事になる。わたしに仕える者が居れば、父はその人を大切にして下さる」も同じ発想でしょう。キリストに従えば、キリストが居る所、つまり、天国にその人も居る事になると言うのです。これまで長くキリスト教は、復活したイエスは、天国に戻られたと信じ、その様に宣教して来ました。アメリカ南部の綿畑でこき使われた黒人奴隷たちも、死んだら天国に行けると、白人のキリスト教に教えられ信じました。その天国の話は本当でしょうか。黒人奴隷を上手に使うためにそう教えたのではないでしょか。では、復活したイエスは、どこに居られるのでしょうか。また後で、お話します。

 

 今朝の聖書の箇所のポイントは「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」、つまり、たくさんの実が生るという事でしょう。イエスの教えは、死ぬ事が終わりではなく、「実」を生み出すという事です。「実」は、それが次の世代の命を養うものです。「命の糧」なのです。この頃、殆どの宗教が、死んだら天国、或は、極楽浄土に行くと言われる様です。仏教のお葬式でも、天国で、いまご両親に逢っているだろうと言われたりします。私たちもその様に思からでしょう、召天者という言い方をしています。しかしイエスがここで教えている事は、死んだら、次の世代を養う「実」、「糧」となるという事ではないでしょうか。イエス・キリストも殺されました。しかし、その後、2000年間、非常に多くの人々の命の糧となって、多くの人々の命を支えて来ています。

 

 

 先に天に召された方々は、日頃の私たちから遠い世界、別の世界に行く、という考え方が根強くあります。しかし、イエス・キリストは日頃の私たちを支える「糧」となって、私たちのすぐ近くに寄り添って居られる、私たちと共にいて下さると教えておられるのだと、受けています。私たちがその事に気が付かなくても、私たちと共に居られ、今、私たちに寄り添って、支えて頂いていると受けています。小さな子供は親の心、愛には気が付きません。でも、親の愛は、そんな子供だからこそ、優しく子供を包み、育み、励まし、子供たちが育ち成長する様にと親の命の糧を注いでいます。イエスに従う先に天に召された方々は、その方々の「実」、つまり「人として生きた情熱」を、いまを生きている私たちに、イエス・キリストと共に、注いで下さると信じます。先にイエスの下に召された方々、お導き下さい。アーメン