「心が内に燃える」      2020年10月4日

                                    福田昌治先生説教

                            富野教会協力牧師

  ルカ24:13~16/25~35 

 

 ルカ24章は多くの人の心を捉え、ルオーやレンブラントの絵となり、ヘンリー・ライトの讃美歌(478)となっている。長い一文であるが、三つの言葉に注目したい。「彼らの目が遮られて」(16節)、「彼らの目が開けて」(31節)、と「お互いの心が内に燃えた」(32節口語訳)である。ここで「目」とは信仰を意味する。

 目がさえぎられ、信仰があやふやになった二人の弟子の生き方は万事に消極的、後ろ向きであった。エルサレムからの退去(13節)辛く苦しい現実からの逃避である。また復活のイエスが近づき、同道してもイエスに気づかない、とは正常な判断が出来ない姿である。そして口を突いて出てくるのは愚痴のみ(17.21~22節)。また復活の出来事は知ってはいたが、何の力にもならず、ただ戸惑う奇妙な事件でしかなかった。(23~24節)

 しかし、主イエスはこの二人を見捨てはしなかった。ご自分の方から二人に近づき、共に歩き、語りかけ、聖書を解き明かし、信仰の目を開いてくださったのである。それによって二人は十字架に架けられ、死なれたイエスが死と死の勢力に打ち勝ち、新しい神の命に甦らされ、主として生きておられる事を確認できたのである。「お互いの心が内に燃えた」のはこの時である。そして強い人になった。もう逃げる必要もなく、生き方は一変した。厳しい現実に立ち向かう人間とされていったのである。逃げようとしていたエルサレムに即刻立ち帰り、新しい使命に、復活の証人として生きる者とされていった。

 

 

 この二人の弟子は即私達そのものなのである。厳しい生活に苦労を重ね、疲れ果て、信仰の目もさえぎられる時、生き方も後ろ向きになりがちである。しかし、礼拝で聖書が解き明かされ、十字架と復活のイエスが主となられ、今も変わらず私の主として、共にいて下さり、私の歩みを支えて下さることが確かめられた時、私達の心も内に燃え、新しく生きる力となるのである。