ステファノの殉教」   2019年9月22日 

 

使徒言行録7:54~8:1a 招きの詞使徒言行録8:8~15

 

 

 

 皆さま、お早うございます。昨日のコンサートはお疲れ様でした。予想以上の方々が来て下さって驚きましたし、感謝したいと思います。原始キリスト教会でペトロやパウロの活躍が在りましたが、もう一人大きな影響を与えたのがステファノだったと思います。特に彼の殉教は大きな出来事でした。何故殺害されたのか、長い彼の説教が残されていますが、まとめるのは少し難しいです。キリストに従う者としてユダヤ教の最高法院で取り調べられました。イエスが十字架刑になったのは、ローマの法によってでしたが、ステファノはイエスよりも後なのに、ローマと関係なくユダヤ式の石投げの刑が可能だったのか、一寸分かりません。影響力の点で、イエスとステファノでは全く違うからでしょうか、或は、都の外で殺したからかも知れません。

 

 

 

 何故ステファノが殺される事になったのか、7章から長々と書いてあります。ここをまとめてお話するのもかなり難しいです。6:13に「そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。『この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。』」とあります。つまり、神殿と律法、当時のユダヤ教で一番大事なものを、軽んじていると告発したのです。この状況をリードしたのはファリサイ人だと理解されています。投石されて殺されたのですが、その場面は非常に美しく書かれています。相手を呪うとか、痛みの表情とか描かれていません。私は或る意味で、その様な事を注意しなければならない事をお話したいのです。殉教は、信仰者の姿としては非常に素晴らしい事で、私たちの模範かもしれません。では私たちがそんな場面になった時、殉教しなければならないのでしょうか。

 

 

 

殉教は特殊な事でしょうが、もう一つ、国のためにと言いますか、例えば、神風特攻隊など、国ために命を捧げた事を非常に美化する、国ために死んだのだ、だから後の者たちも続け、という事はどうでしょうか。殉教した人は、その人の信仰であって、私たちがそれを受け継ぐべき事にはならないと思います。殉教を否定する事を考えた作家がいます。その様な一人として、遠藤周作をいま、思っています。彼の「沈黙」という作品は1966年に出版されて、第2回谷崎潤一郎賞を受けています。アサ会を創設した田中遵聖氏の息子の田中小実昌氏もこの賞を、「ポロポロ」という作品で受賞しています。ポロポロとは、ポーロ、ポーロの事です。

 

 

 

この「沈黙」という作品で、遠藤周作は弱い者の神、そして共に居て下さる同伴者なる神を描いたと言われています。13か国語に翻訳されたそうです。この作品をイギリスの作家、グレアム・グリーンは、(その作品の一つが「第3の男」でずいぶん昔映画化されました)、「円藤は20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家である」と言っています。彼は「静かなアメリカ人」(映画化もされた)ベトナムを舞台に反アメリカの思いを書きました。そのためにアメリカ入国を拒否されています。「沈黙」をお読みになられた方も多いと思いますが、その粗筋を辿りますと、イエズス会の司祭クリストファ・フェレイスは日本で宣教していましたが、迫害に遭って信仰を捨てます。その後輩のセバスチャン・ロドリゴも日本にやって来て、五島に行きます。五島の隠れキリシタンに歓迎されるのですが、やがて長崎奉行に負われる身となります。その奉行所で先輩のフェレイスに会います。

 

 

 

日本人の信者で、踏み絵を踏んで信仰を捨てた人々も、まだ許されていませんでした。ロドリゴの信仰を捨てさせるために、「お前が信仰を捨てないと、この日本人たちも許されない」と迫られます。そこでロドリゴは自分の信仰を守って殉教するか、自分が信仰を捨てることで、イエスの教えに従い苦しむこの日本人の元信者たちを救うべきか、ジレンマに陥って苦しむ事になります。実は先輩のフェレイスも、同じジレンマに悩んだ末に信仰を捨てたのです。そしてついにロドリゴも踏み絵を踏む決心をします。そして踏み絵を踏もうとした時に、激しい痛みが足を襲います。その時に、踏み潰された踏み絵の中のイエスが、「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛みを分かつため、十字架を背負ったのだ」と言うのです。

 

 

 

日本人の信徒の中にキチジローがいるのですが、許しを得て、敗北に打ちひしがれているロドリゴを訪ねます。イエスは再びキチジローの顔を通してロドリゴに語ります。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ。」また、「弱い者が強い者よりも苦しまなかったと、誰が言えるか」とも語ります。踏み絵を踏む事で初めて、自分が信じる神の教えの元々の意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン祭司である事を自覚するという作品です。ご存知の通りです。

 

 

 

遠藤周作は、西洋のキリスト教ではなく、日本のキリスト教を目指した作家と言われます。最大のテーマは「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」だと言います。作家としての自分の仕事を「だぶだぶの洋服を、和服に仕立て直す作業」と言っています。イエス・キリストに対して次の様なイメージを持っていたと言われています。「キリスト教の持つ最大の救いの能力は、聖書に描かれるゴルゴタを登るイエス・キリスト。罪人として拷問の末、汚れにまみれ、自分をつける十字架を背負い、しかも衆人が激しい罵声を浴びつける姿が、歴史上もっとも惨めな、しかし美しい人間である。誰にも認められず汚く惨めな自分をどこまでも無限に、傍らに居て見守る人、それがキリスト。」

 

 

 

殉教はそんなに美しいのでしょうか。その人に続かなければならないのでしょうか。すごい信仰だとは思います。しかし、それはその人の信仰であって、私たちキリスト者の模範だと考える必要はないのではないでしょうか。国ために準じた人々を美化してはいけないと思います。私たちは後に続く必要はないと思います。だんだん強力な軍隊を持つ、これは日本だけの問題では在りませんが、その様な状況にあります。何度目かの富国強兵の思想が押し寄せています。

 

 

 

でも私たちが信じるイエス・キリストは、どんな方なのか。強く豊かでなければならないのか。どんな意味で、私たちの「主」であるのか、何のための十字架だったのか、聖書からしっかり学びたいと願い、祈ります。イエス・キリスト 私たちの希望としておお導き下さい。