「他力と依存」           2019年10月13日 

 

マタイ22:34~40 招きの詞マルコ5:25~34

 

 

 皆さま、お早うございます。関東の方は台風15号に続けて、それを上回る19号が襲って、復興も出来ない内に大変な事になっているようですね。被災者の方々の為に祈りたいと思います。生きた心地もしない方々が大勢おられると思います。先週は古代ギリシア人の終末観をお話しました。人間同士がお互いに心が通わなくなって、災難などが起こった時に、共同作業も出来なくて、世界が滅びる事になるのだという終末観だったと思います。これは今の世界でも非常に現実味のある言葉だと思われます。お互いに心が通わず戦争が起こっていますし、私たちの力が中々及ぶ状況ではありません。しかし、一つの反省としてこののぞみの群れに於いてはどうなのでしょうか。自分自身の事も振り返る事が大事です。自分自身を振り返る事に、教会も免れない事は歴史を見ると分ります。

 

 

 

 旧約の神ヤハウエは、イスラエルの民をエジプトから導き出して、40年掛かったのですが、シナイ半島の荒れ野を通って、豊かなカナンの地に導かれました。イスラエルの民が途中でバラバラに成りそうになります。昔のエジプトがもっと楽だったとか、不平を言い、金の子牛を作って偶像を拝んだりします。そこで神はイスラエルの民がまとまる為に、十戒を与えられました。それに依って進んで行くのですが、時が流れていく中で指導者たちが自分たちの利益を求めて、寡婦とか貧しい人々搾取していると神は糾弾されます。それがイザヤ書その他に書かれています。神は罰を下されました。バビロン捕囚がその一つです。北の方のバビロニア帝国にイスラエルは占領され、多くの民を連れて帰り、奴隷として働かせました。でもいつまでもそうして置くわけにはいかないと、ペルシャを起こして、バビロニアの捕囚から帰国します。

 

 

 

 帰国して国作りの中心にエゼキエルやエレミヤは神殿と律法を置きます。しかしこれも段々、神殿宗教者たちや律法学者たちは、自己中心的な国作りをします。自分たちが繁栄するのは、神の御心だとばかりに搾取をします。それがひどくなって、病人や貧しい人々を、その人々の罪の結果だと、社会から罪人として排斥します。そんな状況を神はご覧になって、方針を変えられたと私は思います。神殿や律法中心ではなくて、ガリラヤなどに追いやられている貧しい人々、弱く小さくされている人々、病の中に沈んでいる人々に手を差し伸べようと、神は方向を転換されたと信じます。富と権力の犠牲になっている人たちを何とかしようとされたのです。よく「神は愛である」と言われますが、これを私自身の言葉にさせて頂くと、神はご自身の身銭を切って、或は自腹を切って、救いの手を差し伸べられたのです。その形で弱く小さくされた人々に命を注いで下さったのです。それがイエスの十字架の出来事です。その命の注ぎそのものは、弱く小さくされた人々自身も、権力者も何も出来ない。まったく神ご自身のお働きですから、所謂、命を注がれる側からすれば、他力なのです。その意味では、キリスト教も自分の信仰が先ではなくて、神の自腹を切ったお働きによって、私たちは命を頂いているのです。それがイエスの十字架の出来事で、そこから私たちは命そのものを頂くのです。それと同じ出来事が、長血を患ったご婦人がイエスの服に触れて癒された出来事です。医者にかかっても益々悪くなり、お金も無くなってしまった。このご婦人がイエスの服に触れただけで、助けられたという全くの他力の出来事です。そして、そのご婦人がその後どうなるのか、という問題がもう一つ在ると思います。

 

 

 

 教会の事をよく「新しいイスラエル」と言います。そのキリスト教会は命を頂いた者たちが、互いに助け合ったり支え合ったりするために、群れとなったのがキリスト教会です。しかし長い教会の歴史を見ますと、やはり教会も自分が中心になって、教会を支え、教会が栄える事が、神に仕える事だとなってしまいました。そこがすり替えられてしまいました。神を讃美し感謝する事が、教会が栄え教会に感謝する事になってしまいました。ヨーロッパの中世はカトリック教会中心の世界でしたが「暗黒時代」と呼ばれています。貧農たちは搾取されて益々貧しくなりました。カトリック教会の司祭たちは豊かな生活をしていました。そのために「免罪符」を販売したり、とにかくお金を集めました。そこで所謂「宗教改革」が起こりました。教会の外のルネッサンスなどと呼応している様に思います。ユダヤ教のイスラエルから新しいイスラエルとしての教会が建てられたのですが、やはり教会も自己目的化してしまいました。互いに支え合う事がずれてしまいました。

 

 

 

 何故そうなるのかと考えますと、先程の讃美歌で「感謝、感謝」と在りましたが、感謝がなくなると、隣り人を大事にする事も無くなると思います。そして結局は依存が生まれるのではないでしょうか。他の人々の力を使って、自分の思いを遂げるのです。命を注いで頂いた私たちはお互いに支え合うのですが、その為には、自分がちゃんとしていなければなりません。自立といいますかね。それが必要だと思います。ご婦人が癒された後でイエスが言います。聖書をご覧下さい。70頁です。(マルコ5:34)「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」という事は自立して自分でちゃんとして生きなさいという事です。「病気に罹らず元気に暮らす」ために、つまり、人に依存しないで生きる為に、イエスは二つの掟を教えました。最も大事な掟として皆さんご存知です。

 

 

 

 その一つが「神を愛しなさい」という事です。でも、「神を愛する」は言葉としてパッと通るのですが、どうする事でしょうか。よく分かりませんね。そこで「愛する」をこの頃は「大事にする」と言い換えられています。神を大事にする、神のお導きを大事にする事、さらに言えば、神に感謝する事です。神を大事するという事は、神から大事にされているという事なのです。力を尽くし、心を尽くし・・・・と書かれていますが、神から支えられ助けられている事は、私たちのどんな場面を見ても、そこで神に助けられ大事にされている事を現していると思います。だから私たちも力を尽くして神を大事にし、感謝する事になるのです。私たちの生活のどんな場面を見ても、神に支えられている、その事に私たちは殆ど気付かないのですが、その事の裏返しが全てを尽くしてという事なのです。どんな時にもどんな場面でも私たちは支えられているのです。

 

 

 命を頂いているからには、お互いを大事にする、これが第二の戒め、「あなたの隣り人を大事にしなさい」という事です。しかし隣り人を大事にすると言っても、中々出来ません。その「隣り人を大事にする」という事を言い換えさせて頂くと「自分の真(実)を見せる」という事だと信じます。自分を良く見せかけなくても良いのです。これが隣り人を大事にする事につながると信じます。私たちはつい、カッコ良く見せようとしますが、私たちのこの小さな交わりに於いては、お互いに「在りのままで良い」、自分の真をお互いに開いて認め合う、これが隣り人を大事にする事なのではないでしょうか。自分を大事にする様に、隣り人を大事にしなさいというイエスの言葉を、「自分の真実に依って隣り人に接しなさい」と言い換えさせて頂きました。それが真を尽くす事だと思います。それがどんなに小さくても、どんなにボロでも、自分のものですかた仕様がありません。自分の真を隣り人に開く、これが隣り人を自分と同じように大事にする事ではないでしょうか。イエス・キリストも、神の真、ご自身の真を示して下さいました。主イエス アーメン