「神の国に今、生きる」      2018年11月4日

 

ルカ13:18~20  招きの詞ルカ13:10~17

 

 皆さま、お早うございます。先週はバザーを、お疲れ様でした。外に向かっての第一歩だったと思います。今朝の神の国ですが、私たちが死んでから行く所みたいな感じで受け止められている事が多いと思います。でも、神の国は近づいたと在ります様に、近いのだと思います。では、それは何処なのか、イエスが私たちと共に居て下さるのは何処なのか、少し考えてみました。「神の国は近づいた」とマルコの1章に在ります。いつも申しますが、「近づいた」は完了形です。近づいて、今、ここに在る、という感じです。そして福音を信じなさいと言われる、その福音とは、神の国が来て、ここに在るという事だと思います。本田神父はここを、「時は満ち、神の国はすぐそこに来ている。低みに立って見なおし、福音に信頼して歩みを起こせ」と訳しています。ギャロット先生は、「ついに時は来た。神が支配する新しい時代はいま、始まろうとしている。心を入れ替えて、この福音を信じなさい」と訳しています。国という言葉はバシレイアですが、ハーブにバジルというのと語源は同じで、王様たちだけしか使えなかったので、この言葉になったようです。王が支配する国ですから、神の国とも訳せますし、神の支配・統治とも訳せるわけです。ギャロット先生はこちらに訳されたのです。

 

 「神の国がここに来ている」というのが福音ですが、それはイエスが此処に来られた事を指していると思います。そして「今、此処に居られる」という事です。でも、イエスは何処に居られるのでしょうか。イエスは私たちの傍に並んで居られるのではないと思います。じゃ、何処に?それを私は「命の内側、命の奥底に」と考えてみました。外がどんなに悲惨な状況でも、内から湧いて来る命が在る。それを感じる感性があれば感じますし、生きる事が出来ると思います。厳しい状況に在っても、生きている限り、命の内側から湧いて来て、励まし、力、希望を与えて生きるようにと促して下さる、これがイエスの福音、イエスの命が私たちの命に重なって在ることで、並んで、ではない、命の奥底に、だから私たちには見えにくいのでしょう。命の奥底はなかなか感じる事ができません。この世の様々な事に気を取られて、落胆したり希望を失くしたり、外側の事に惑わされて、生きていると言えます。

 

 どんな悲惨な状況であっても、命ある限り、命が命の中から湧いて来る事が在る、と信じます。それで皆さまもご存知と思います、塔和子さんの詩を印刷しましたので、ご覧下さい。「命の歌」という彼女の詩選集からの「生」という詩です。彼女は1929年に愛媛県に生まれた方で、1943年、戦争中にハンセン病に罹ります。香川県の国立両署の大島青松園に隔離されます。その後特効薬のプロミンが開発されて、病は治るのですが、後遺症の為に園に残られます。1961年に詩集第1集を、そして2003年までに19の詩集を出され、この詩集は1999年に出されます。(この週報に挟んでいます)やはり、痛みとか硬直した体の事も詠まれています。もう一つ「向こうから来るもの」という詩をお読みします。(裏側に印刷)彼女の不運な人生も向こうから来た、しかし、この詩を作る様になった出会いが有って、それも向こうから来たと言われます。1999年に彼女の詩集「記憶の川」で第29回高見順賞が贈られました。その選者の一人、大岡信氏が彼女の詩には、別に新しい事や奇異な事は一つもない。ごく静かな普通の居る様なところからのもだけれども、彼女の詩は「本質から湧く言葉」で死を作っていると言います。これを読んで、外の状況がどんなに悲惨であっても、と口で言うのは申し訳ない気がします、その苦しい状況を軽々しく言い過ぎると思い、申し訳ないのですが、党さんも何かに触れて詩を作るようになられました。

 

 イエスも人々の悲惨な状況に外から、何かを人々に届けられたのでしょうか。例えば大震災とか地震、水害などの被災者の方々に、外から慰めや励ましをされる事が在るのでしょうか。私は命の奥底にイエスが居られて、普通には私たちは決して感じることは出来ないのですが、その様な命の奥底に居られる、だから外の状況がどんなに悲惨でも、申し訳ない言い方ですが、命ある限り、内から湧いて来るイエスの励まし、希望の言葉を与えられると信じます。でも、その事を私が言うだけでは、何の意味も無い、と思います。外の状況がどんなに悲惨でも、命ある限り、命の内側から湧いて来るイエスの命だと自分で言いながら、それは何の価値も有りませんと思っています。じゃ、意味が在るとはどういうことなのか、それは悲惨な状況の中に居られる方々の命の奥底に居られるイエスに、「どうぞ、助けて下さい」と祈るかどうかなのです。私たちの在り様が、私自身がその人、或は人々と、共に生きる、という事が無ければ、いくら私が、イエスはこうですよ、と言いましても、何にもならないと私自身、思っています。悲惨な状況、心の問題も含めて、苦しい状況の中に居られる方々の為に、祈る、という事が私たちキリスト者の中に起らなければ、イエスが祈って居て下さる、私たちも祈らなければ、という事です。そこが、私たちに命の主イエス・キリストが求めておられる、主、という時、その主イエスに従うという事が起こらなければ、イエスの慰め励ましは、始まらないと思います。

 

 私たちは先ず、この様な方々を覚える事、先週も韓国のB,C級戦犯の判決を受けた方の話をしましたが、その一人の方、李鶴来イハンネさんの事も祈りに覚えたい、祈りに覚えるとは具体的でなければならないと思います。それは小さい事かも知れません。この人のために、あの人のために祈る、その人がいまどんな状況に居るのか、心を配る、それがなければならないのではないでしょうか。その様な生き方を私がする時に、私は、いま神の国に生きている、網の命に生きている、神の福音の中に生きている、という事なのです。イエスが何処に居られるか、それは本当はイエスの事です。イエスはご自由に思われる所に、居られると思います。でも、そのイエスと共に、苦しむ人々、悲しんでいる人々、失望している人々の為に、祈る、個人を覚えて祈る、それが、私が、いま神の国に生きる事だと信じます。イエスに私たちも励まされて、そこしでも、主なるイエスに倣って生きる、そこが、いま神の国に生きる事です。私どもの所に既に、来て下さって、私たちのために共に居て下さる、 イエス・キリスト アーメン