「信仰からの解放」            2018年128

   マルコ9:14~24    招きの詞マタイ9:9~13

 

 皆さま、お早うございます。藤波さん、孝多郎君、よく来て下さいました。この1年が神に守られて恙無くツツガナク過ごされますようにお祈り致します。先週は小谷先生の事を犬養先生がお話下さったのですが、私が一番心に残ったのが、(週報の後ろに掲載しました。)1970年に憲法が空文化される、変わって行く事を予言して居られる事です。憲法9条は絶対に守らなければならないと小谷先生がおっしゃった、またその様に感じて居られた、それを犬養先生も同じ聖書研究会で大事にして来られました。1968年にアメリカの原子力空母エンタープライズが初めて佐世保に来て、学生が激しく反対運動を展開しました。現在はあの頃の様な激しい学生運動や組合活動は見受けられませんが、それだけに状況はドンドン変わってきている事に注意しなければなりません。本当に平和を求める政治、格差の無い社会を作る政治を願いますが、今はその反対にしか動いていません。それをどうしたら留める事が出来るか、政治の問題は中々難しいですね。だからその事をずっと祈り続けなければなりません。今朝は「信仰からの解放」という題で、「信ずる者にはなんでもできる」とイエスが言われた事に反する様に思われますが、「信ずる者にはなんでもできる」と皆さんはそう思っておられますか。

 

 弟子たちも信じていました。イエスから力を受けたと信じていましたが、この子供から悪霊を追い出すことが出来ませんでした。だからお父さんは子供をイエスの所に連れて来ました。弟子たちはどうして自分たちには出来なかったのかと尋ねます。祈りが大事だという様な事をイエスは言われますが、じゃ、弟子たちは祈らなかったでしょうか。信じなかったでしょうか。そんな事は有り得ません。弟子たちも必死に祈ったし信じていたと思います。でも出来ませんでした。この問題を考えざるを得ません。私たちも大きな状況もそうですし、個人の状況も困った事など、中々自分の思い通りにはなりません。そんなに欲張った事では無いのに、体が上手く動かないとか、どうしてなのかと思わざるを得ない状況に私たちは居ると思います。祈りが足りないのか、信仰が足りないのか、どうなのでしょうか。そんな風に考える人居られますが、私は逆に信仰から解放されなさいという事が、この出来事の中には在るのではないかと思います。

 

先週、お話下さった犬養先生はずっと筑豊の福吉で伝道されました。犬養先生ことは私よりも松岡さんの方がずっと良く分かっておられますが、先生は自分は筑豊に就職とかし献身したのだと言われます。1960年、昭和35年頃から日本は高度経済成長期に入り、所得倍増などといわれ産業が活発化します、それと同時にエネルギーの革命も起こったのです。それまで石炭を大量に消費して復興の基礎を作りましたが、ひどい公害問題も起こり、石炭から石油に変わりました。石炭産業は斜陽化し、さらに没落しました。それに取り残されたのが筑豊です。犬養先生は筑豊子供を守る会に根を下ろされて、1年間休学されて関わられ、大学に戻って卒論を書かれて、1年後に筑豊に戻って来られました。それから50年、ずっとそこで働いて来られました。初めの頃は同志社の神学部を出られて、福吉伝道所を作られて、そこからイエスを筑豊の貧しく苦しんでいる人たちに伝道して、救われて欲しいと一生懸命に働かれました。伝道所、即ち教会から出て行って伝道するという気持ちで活動されました。筑豊の人々を救うにはキリストしか無い、この状況を救うにはキリストしか無いと、一生懸命に伝道されました。生活のために時にはダンプの運転をしたり、素子夫人は幼稚園で働かれたりされながらずっと頑張って来られました。

 

 犬養先生には教会にキリストが居られて其処から伝道に出て行く、という図式があったのです。犬養先生はキリストの弟子でありキリストの使いなのです。キリストが働いて下さるその弟子として働く、筑豊の救われない人々の為に頑張るのだというお気持ちだったと思います。それがいつの間にかひっくり返されて仕舞われたのです。つまり教会にキリストが居られるのではなく、貧しい人や困っている人たちの所に、すでに犬養先生より先にその人々の所に居られるキリストに出遭われたのです。普通、教会にキリストが居られると多くの方々、またクリスチャンも多くの牧師も思っています。しかし私は以前から、ここにはイエスは居られない、イエスをお祀りはしていませんと申し上げています。キリストは皆さま方と共に居られ、この礼拝も皆さま方と共に来て下さるイエスをみんなで礼拝するのだと信じています。皆さまの日々生きる中にキリストは一緒に居て下さる、そのキリストが私たちを此処に導いて下さって、お互いにそのキリストを礼拝し讃美しようと集っていると信じます。

 

犬養先生も福吉伝道所にキリストが居られるのではなくて、人々の只中に居られると思われる様になられました。例えばカネミ油症事件の被害者の紙野さんもおられました。神野さんの告白の中には、過眠さんが苦しくて痛くて悲しくて一人泣いて居たら、一緒に傍で泣いていて下さるイエスに出会われた事が語られています。犬養先生御自身は最後まで教会を否定はされませんでしたが、例えば、無教会とのつながりが出来られました。無教会の人々、先生方とも出会われました。高橋三郎先生や小谷純一先生方もそうです。犬養先生は今も教会からは離れておられません。紙野さんが教会から離れて行かれたりして、犬養先生も苦しい思いをしておられるのです。教会にキリストが居られて、皆さんは教会でキリストに出会って救われる、という事ではないという信仰に犬養先生は立っておられます。この玄関を入った所にアイヘンバーグのキリストが教会の炊き出しを待つ人々の中に立っておられる絵があります。犬養先生もそんなキリストを見られたのです。教会にだけ縛られたキリストではありません。犬養先生は筑豊でキリストの使いとして教会から出て行って働こうとされたけど、先に出て行って居られたキリストに出会われたのです。パウロもそうです。迫害される側に居られるキリストにパウロはひっくり返されました。

 

今朝の悪霊に取りつかれた子供を弟子たちは直すことが出来ません。自分たちに力が在ると思っていたし、犬養先生も、パウロも思っていたでしょう。でもそうではないという事が起こりました。キリストの方が主なのです。私がキリストを信じているという思いが大事なのではなくて、本当にキリストと出会っているかどうかなのです。お父さんは必死にイエスの助けを求め「おできになるなら、お助け下さい」と言いますが、「信じる者にはなんでもできる」と言われて、いきなり「信じます!」と叫びます。何か信じなければならないとか、こちらが一生懸命信じ込む様な事ではなく、「出来事」なのです。イエスの言葉でお父さんは「信じます」と叫び ました。信仰は出来事なのです。自分の姿勢や思いで神を信じるとか信じないとか言いますが、キリストが起こして下さる出来事なのです。私が信じるとか信じないとかではなく、お父さんは「信じます!」と思わず叫んでしまいます。そして「信仰のない私をお助けください。」と言うのです。この出来事から、いわゆる「信仰」から解放されて、「信仰のない、私をお助け下さい」と祈る事を教えられ、これが私たちに出来る事だと思います。信仰が無い事をイエスに告白して、いつも信じている、また信じなければならないという思いから、イエスは私たちを解放して下さいます。