「裁きと赦し」      2019630   

              西福岡のぞみキリスト教会会員 西村義人兄

 

  ヨハネ8111     招きの詞 マタイ61415

 

 

 

 牧師も働き方改革を問われる時代です。会員みんなで支える教会を目指し、先頭バッターとして、今朝初めて講壇に立ってお話することになりました。

 

専門的な聖書の勉強はしておりませんので、我々の周りに起きた社会的事件を通してご一緒に考えていきたいと思います。

 

先月528日川崎で起きた殺傷事件。スクールバスを待つ小学生と保護者の中に包丁を持って男が乱入、次々と20人を殺傷。内2人死亡。犯人はその場で自殺したという事件。調べによると犯人は51歳で長い間引きこもりであったという。この事件に対しマスコミ・世論は「死にたいなら一人で死ね。」と「自己責任論」で非難しました。このような社会から排除され、家族からも見放されて孤立し、死を考えるまで追い詰められた人たちへの想像力を欠く発言には、私個人的な経験からも納得できないものがあります。

 

対照的な事件として、200610月アメリカペンシルバニア州の片田舎にあるアーミッシュの小学校に32歳の男がマシンガンを持って乱入、乱射して娘たち10人を殺傷し犯人はやはりその場で自殺、という事件。

 

全米を驚かせたのは事件もさることながら、被害者アーミッシュの家族の「我々は犯人とその家族を赦します。」という事件直後に出した赦しの声明でした。この復讐権の放棄はアメリカの人たちには信じられないことでした。

 

アーミッシュとは何だ?と早速図書館に行って調べました。

 

〔イエスの教えを忠実に守るプロテスタント急進派の一派で、アナバプテスト(再洗礼派)と呼ばれ、ルターの宗教改革の後17世紀スイスで生まれる。18世紀半ばよりヨーロッパから新天地を求め北米へ移住。招詞で読んでいただいたマタイ61415「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」をコミュニティの中心信条に生活。電気、ガスを使わず自動車も持たず、未だに移動手段は馬車という質素な生活。家族規模の農業を営み、現代文明を拒み平和主義を貫き軍隊入隊の禁止。安定した社会を築き、ホームレスも失業者もいない社会。これほどまでにテクノロジーの恩恵に浴せず次第に縮小・消滅すると思われていたが反対に拡大し、現在全米とカナダの一部に20万人に近い人々が生活している。〕

 

この“アーミッシュの赦し”に対する賞賛

 

・「すべての人々が彼らの信仰と赦しを見習ったらこの世界はどんなに良くなることでしょう。」

 

・「アーミッシュは真のキリスト教とはどんなものかを示した。」

 

・「米国社会のあり方を反省する機会を与えてくれた。」

 

むろん反論もあります。

 

・「我々の中に子供が虐殺されたのに誰も怒らないような社会に住みたいと本気で思っている者がどれだけいるだろうか?」

 

ひとりのクリスチャンとして、いや人間として考えさせられる事件です。

 

20年前の1999年山口県光市で若い妻と生後11ヶ月の我が子を無残な姿で殺された、母子強姦殺人事件のこと。

 

被害者の夫、本村洋(当時23歳)の無念を晴らす9年間にわたる闘いの記録『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』(新潮文庫)を読みました。

 

犯人は当時18歳の少年でした。一審は無期懲役。少年犯罪の場合無期懲役でも最短7年で出所出来る。判決後、本村氏は「司法に絶望しました。控訴、上告は望みません。早く被告を社会に出して私の手の届くところに置いて欲しい。私がこの手で殺します。」と公然と報復殺人宣言をした。

 

その後、検察や関係者の説得もあり最高裁まで争う中、死刑判決を勝ち取るまで日本の司法制度や死刑制の問題など様々な問題提起があり、一気に読了しました。

 

罪を犯した人間を裁くことは社会の正義である。

 

「誰が赦し、誰が私を裁くのか。神に代わり裁判官か警察か?私を裁けるものはこの世にいない。」とこの犯人は述べています。

 

今日読んで頂いた聖書の箇所、ヨハネ8111は有名な姦通の女の話です。神殿で群衆と話しておられたイエスのもとに律法学者やファリサイ派の人々が現行犯で捕まえた女を連れてきてイエスを試します。

 

姦通はユダヤの律法でモーセ十戒の10番目(出エジプト記2017「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」)に違反し、石で打ち殺せとあります。さあ、どうしましょう?とイエスを訴える口実を得ようと試します。

 

イエスはしゃがみ込んで何も答えない。律法学者たちはしつこく問います。やっとイエスは立ち上がった、とあります。私はその何も答えなかった間、神の声が届くのをじっと待っておられたのだと思います。神の声が届きました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」そして又身をかがめられた。その間、どんなに不安だったろうか、と私なら思います。大きなことを言ったものの、ほんとにこの女に石を投げたら・・・。その結果を想像するだけでぞっとします。

 

すると、これを聞いたものは年長者から一人また一人と、立ち去ってしまい・・とあります。これを読むとユダヤ人は本当に自分に厳しい民族だなぁと思います。日本人だったらきっとこうはならなかっただろうと。

 

そして、年長者から、というのも、長生きするということは、罪を重ねることなのだ、という実感が出て、よく人間観察しているなぁと感心します。

 

イエスの厳しさは、マタイ527「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも既に心の中でその女を犯したのである。」とあるように人の心の中まで問題にされます。私なんか、冗談じゃないと諦めますが・・・。

 

では、この現場で誰がこの女を赦したのか?私はずっとイエスと思っていました。でもよく読むとイエスは条件を出しただけで、赦せと命令はしていない。では他の群衆が?彼らは赦さざるを得なかったにすぎません。この現場で神によって罪を赦されたのは、実は女ではなく、去って行った人々なんだ!と気づかされました。またこれらの人々の中の一人が私なのだと。自分の罪を悔いて、女を罰することが出来なくなった。それは神の愛を受けたことを意味するのです。神の愛を受けると人は赦すことが出来る。その人の心は何故か限りなく安らぎを覚えるからです。

 

この世では現行犯で捕まった犯罪者が何のお咎めもなく赦されることがあってはなりません。そんなことが天の国では実現するのです。

 

ローマ書1219を文語訳で読みます。

 

「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒りに任せまつれ。しるして

 

『主いひ給う、復讐するは我にあり我これを報いん』とあり。」 アーメン