「めげずに立ちつづけることによって」      

                                2020年11月15日

 

ルカ21:12~19(本田神父訳)     

      招きの詞ローマ15:3~6(本田神父訳)

 

 

 

 皆さま、お早うございます。紅葉がこの辺りまで見頃になりました。天気も良くて台風も来ないのに、コロナがもう完全に第3波ですね。いま私たちが生きるのは、ただ惰性で生きるのではなくて、何が大事なのか、そこに焦点を合わせて生きる事が必要なのではないかと思われます。私たちは思いがけない出来事、試練に遭います。その人には殆ど責任が無い事も多いのですが、今朝のルカの記事は、「あなた達は、私の仲間という事で、親、兄弟、親戚や友人からまで、売りわたされ、中には殺される者もあるだろう」とあり、飛んでもない様な事です。「私の仲間」とは、イエスを信じた、クリスチャンという事です。それ故に迫害されるのです。そんな事ならもう教会には来たくないという事にもなりかねません。神の子を信じているのですから、恵みを頂いて平和に生きれる様にと歩み始めたのに、迫害が起こって、殺されるかもしれないというのです。今の時代、殺される事は無いにしても、いろいろ問題は在ります。

 

 

 

 このルカによる福音書は、紀元80年代に書かれています。イエスが殺されて50年程経っています。パウロが50年頃から手紙を書いて、マルコが70年代に福音書を初めて書きます。それから、マタイとルカが80年代に書いて、その後100年頃にヨハネ福音書が書かれています。80年頃と言いますと、ローマ帝国に依る凄い迫害が始まっています。紀元64年の皇帝ネロによる大迫害が在りました。65年にはパウロもローマで殺されたと伝えられています。キリスト教は最初、ユダヤ教徒に依って迫害されました。ユダヤ教の律法を守らない事が迫害の原因でした。テサロニケやコリントのギリシア人には、そんな律法は在りませんので、コリントなどの教会にもユダヤ人キリスト者がやって来て迫害しました。その後にローマ帝国の迫害になるのです。そしてこれは313年まで続きます。皇帝コンティヌスが勅令を出して、キリスト教を公認します。

 

 

 

 それで終わったのではなく、日本ではキリシタンが入って来て、やがて禁止されて迫害が在りました。中には踏み絵を踏んで、キリシタンから離れた人々も居ました。平戸の方に、生月島など沢山の島が在りますが、ここに隠れキリシタンが生まれました。松浦藩として幕府からの命令ですから従わねばなりませんが、多くは漁師で鯨を取って、藩の財政を潤していましたので、完全に無くすことは出来ないけど、迫害は続きました。それは明治までの話ではなく、昭和になっても、天皇とキリストとどちらが偉いのかと、兵隊や国民に目を光らせていました。平和の主を信じて、平和に過ごしたいのに、迫害で平和が乱されました。この様な時に、私たちは、どちらに進むか、右か左かと考えます。右が、キリスト教から離れる事だとすれば、左は迫害を受けても信じ通すという事でしょうか。右か左かと言えば、私たちにはどっちかしか無いのです。でも、私たちが意識する世界ではそうなのですが、私たちが生きているのは、単に右左だけでは無いと思うのです。現代では、自殺志願者も多いと言われます。早く、生きる事を止めて、もう死にたいと逃れる気持ちです。

 

 

 

 左に行くと、いろんな問題に突き当たって、そこをどの様に突き抜けるか、壁にぶつかります。立ち往生してしまいます。私たちの世界は普通には三次元の世界です。神はこの三次元の世界だけに居られるのだとは思いません。それをこれまでのキリスト教は、この三次元の世界だけではなく、「天国」が在ると言って来たのです。神さまはそこに居られるので、信仰を貫けば、そこに行ける!と言ってきました。白人たちは奴隷に「従順に生きて、信仰を持って、奴隷の道を生き抜けば天国に行ける!」と言って来たのです。その言葉を信じて、ニグロスピリチュアルを歌いながら、過酷な労働に耐えたのです。そんな信仰を持たされたと言えそうです。片方で白人たちは自分たちの豊かな文化を生み、生活を謳歌しました。今朝も私は、信じ抜いて、天国に参りましょう!と、あまり言いたくないのです。私は少しヘソが曲がっているのでしょか。そんな話をするのには、抵抗が在るのです。イエスを信じる事と、天国に行く事とは、直結していないと私は思うのです。今までは直結していたのです。私たちが住んでる世界がどんなに閉ざされた世界でも、天井の隅の方に、小さな穴が開いていて、信じて耐え抜いた者は、そこから天国に行けるイメージを与えていました。

 

 

 

しかし、そこから抜け出ることに希望を持つのではなくて、ここに立ちつづける事に、希望を持つ事が、もう一つの私たちの生き方としての方向性が在ると思います。右に行くか左に行くかではなくて、ここに立ちつづける事なのです。それはここに立ち往生するかのようにも見えます。往生とは、浄土に昇る事です。イエスを信じる事は天国に喰事に直結しないと今申したのですが、じゃ、ここに立ち続けて何処に行くのでしょうか。ず~っと立ち続けるだけなのでしょうか。そうです。言うなれば、そういう事です。それしか無いと今日はその事を申し上げたいのです。本田神父訳ルカの下から2行目の最後の所ですが、「あなたたちは、めげずに立ちつづけることによって、自分自身を守りとおすことになる」と訳しています。新共同訳では、「あなたがたの忍耐に於いて、あなたがたは自分の命を守る事になるだろう」ですが、「忍耐して」はちょっと重い言葉だと思います。「なるだろう」と言うのは、「未来形」なのです。

 

 

 

 立ちつづける事に今、希望を感じないかも知れない。立ちつづけても、希望を持ちえないかも知れません。イエスは、「中には殺される者もあるだろう」と言われながら、「あなたがたはここに立ちつづけることによって、髪の毛一筋もそこなわれることはない」と言われるのです。それは一体どういうことでしょうかね。私たちの命、魂、心は、紙一枚の世界ではないと申し上げたいのです。表のすぐ裏、そんな紙一枚の世界ではないのです。深みが在るという事です。或は奥行きがあるのです。私たちの命、魂、心には深みが在る。だから、精神や心が病に落ち込むと、中々、す~っとは上がって来れないのです。心の病の方に、周りの者がどうして差し上げたら良いの、上手く行きません。本当に深~い底に沈んで居られるのです。どこまでも深く落ちて行く世界が在るとしか申せません。ですから日常的に私たちが見たり聞いたりする世界だけが、命の世界ではないのです。

 

 

 

 その具体的な事として、昔、学校で試験中に、どうしても答えを思い出せない。そして時間が来て、あ~あ、と思いながら、夕方家に帰る頃はすっかり忘れているのに、夕ご飯を食べている時に、突然、あの思い出せなかった事が、ふっと浮かんで来て、「あっ、そうか!」と思う経験はお在りではないでしょうか。意識としてはすっかり忘れているのですが、心の中では、探し続けていたのです。その様に意識しないけど、心も命も深い所で、動いているのです。そこに手を差し伸べようとしても、差し伸べられない。そんな深い世界が在るのです。私は命が動いているのだと申し上げたい。意識は動いていなくても、無意識が動いているのです。ですから、めげずに立ちつづける事は、その様な命の深さを考える事です。その世界へ私たちはイエスに依って導かれるのではないでしょうか。それを本田神父の訳で、ローマ書の下から4行目の所です。「めげずに立ちつづける力と励ましを与えてくださる神が、あなたたちに、キリスト・イエスと同じ感性を共有してくださいますように。そしてあなたたちが、主であるイエス・キリストの神であり父である方を、心でもことばでも、一致してたたえるようになりますように」と、祈りの言葉になっています。パウロが私たちのために祈っていてくれるという事でしょう。

 

 

そしてルカ福音書の下から3行目をご覧下さい。「それでも、あなたたちは、毛筋ほどもそこなわれることはない。あなたたちには、めげずに立ちつづけることによって、自分自身を守りとおすことになる」。この「守り通すことになる」は「未来形」です。という事は、イエスが私たちに未来を開いていて下さるという事です。未来形で私たちに語って下さるのは、私たちに未来が在るという事です。その世界へと、私たちは立ちつづけることによって、導かれるのだと信じます。最近、「主よ、どうぞ私たちと共に歩んで下さい」と讃美歌で歌っています。いまここで、めげずに立ちつづけることによって、私たちに未来が開かれるという事、この事を今朝は、しっかりと主イエス・キリストから、頂きたいと願う者です。主よ、どうぞ、お導き下さい。アーメン

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    ローマ書15章3節~6節 (本田哲郎神父訳)

 キリストもご自分に都合のいいように、ふるまわれることはありませんでした。それどころか、聖書にはこう書いてあります。

 「あなたたちをののしる者たちのことばが

 わたしに降りかかった」(詩編69:10)

 聖書にあらかじめ書かれていることはみな、わたしたちのための解き明かしで在り、わたしたちが、めげずに立ちつづけることによって、聖書の励ましを受けて、救いを確信するようになるためです。

 めげずに立ちつづける力と励ましを与えてくださる神が、あなたたちに、キリスト・イエスと同じ感性を共有してくださいますように。そしてあなたたちが、主であるイエス・キリストの神であり父である方を、心でもことばでも、一致してたたえるようになりますように。

 

ルカ福音書21章12節~19節 (本田哲郎神父訳)

 

 しかし、そうしたすべてのことが起こる前に、人々は、わたしの仲間ということで、あなたたちに手をかけて迫害し、会堂に引きわたして牢にいれ、王や総督の前に引いていく。それはあなたたちにとって証しをする機会となるのだ。だから、あらかじめ弁明のことは心配しないと、腹を決めておきなさい。どんな反対者も、対抗したり反論したりできないような知恵とことばを、わたしがあなたたちにさずけるからだ。あなた達は、親、兄弟、親戚や友人たちからまで、売りわたされ、中には殺される者もあるだろう。あなたたちは、わたしの仲間ということで、みんなの憎まれ者になるのだ。それでも、あなたたちは、毛筋ほどもそこなわれることはない。あなたたちは、めげずに立ちつづけることによって、自分自身を守りとおすことになる」