「イエスが求めるのは憐れみ」        2020年3月15日

 

  マタイ9:9~13    招きの詞 ホセア6:4~6

 

 

 

 皆さま、お早うございます。コロナウイルスだけでなくて、何か世の中が先が見えない感じですね。先週の11日(水)は東日本大震災から9年目を迎えました。9年経ちましたので、直後の様に大きな声で泣いたり叫んだりは少なくなっていると思いますが、悲しみが今は沈んでしまって、今は自分との戦い、どうしてこうなったのかと自分に問う、自問自答の中で、答えが出て来ない、そんな深い中に沈んでおられるのではないかと思わざるを得ません。家が流されて仮設住宅に住んでいたけど、それも取り払われて、何処かに移らなければならない、早く自立せよと追われても、中々道が開かれない方々もたくさんおられます。この様な大きな災害が在ると、「これは神の罰だ」と言うクリスチャンが居ます。例えば、永井隆博士は長崎の原爆を神の日本に対する罰を浦上のキリスト者に下されたのだと言いましたし、関東大震災では内村鑑三も神の罰だと言ったのではなかったでしょうか。必ず神の罰を言う人が居ますが、私は声を大にして“No!”と言いたいです。「主が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と言って居られるからです。

 

 

 

 では、大震災や自然災害、突然降り掛かる事故による犠牲などは、何なのかについて、簡単に結論は出ません。中々説明がつきません。聖書には「誰が罪を犯したからですか?」、とか、「お前が罪を犯したからだ」みたいな事が書かれています。しかし、私たちはその言葉を口にするべきではないと思います。イエス・キリストに於いても、主なる神は私たちに憐れみを貫いて下さると信じます。もう一か所読みましょう。ローマ書2章は「神の正しい裁き」という小見出しがついています。1節から、「だから、すべて人を裁く者よ。弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。或は、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」と在ります。私たちは他人を裁きやすいです。神は決してそうではない。

 

 

 

 深~い所で、自分と闘っている人たちの事を私たちは考えなければなりません。被災者の方々が9年経って、益々孤独な思いに追いやられている、或は沈んでしまっておられるのではないでしょうか。どうしても忘れる事が出来ない、そうした事を抱えて、益々深く自問自答の日々を送っておられるのではないか。現在の日本は、新型肺炎の事を別にしても、何処か希望が見えないと思います。教会もその一つになってしまっているのではないか。教会が「希望!希望!」と口に出して言えば言う程、周りの世界から、「本当にそうなの?」と懐疑的な目で見られている気がします。希望や命が深く沈んでしまって、中々見えなくなっています。或は出口が見えないとも言えます。そんな深~い気持ちに沈んでいるのではないか。特に東北の方は冬が暗くて寒いです。

 

 

 

 深~い所で自分と闘い、想像できない程深い所での闘いが起こっている。それは誰にでも起こっているのではないでしょうか。自分と闘う、孤独な闘い、そんな闘いをしている人に、村田諒太という人の事を知りました。皆さんご存知でしょうか。ミドル級のプロボクサーです。日本人でこのミドル級で世界チャンピオンになったのは二人しかいません。今そのワールドチャンピオンで、プロになる前はロンドンオリンピックで金メダルを取った選手です。私は全く知りませんでした。いま35歳くらいです。チャンピオンとして1回落ちて、復活した。この階級は体重で決まります。試合前の体重測定では、グラム単位で減量するそうです。その意味で、当然相手との闘いですが、その前に、自分と闘わなければならない。チャンピオンは誰でもそうでしょう。村田選手はこの闘いに全く想像もできない事を、手がかりに自分と闘っている事を最近知りました。何とそれは、アウシュビッツで命の瀬戸際で自分と闘った記録、フランクルの「夜と霧」だそうです。

 

 

 

 ユダヤ人が強制収容所に着くと、一人のナチスの将校が、ユダヤ人の一人ずつを、指先で、右と左に分ける。左はガス室へ、右は強制労働へ。そして、強制労働をする者は、毎朝点検で、この試練を通らなければならない。一人のナチスの指先で、生きるかどうかの運命が決まる。フランクルはくたびれた姿に見られない様に、ガラスの欠片で髭を剃って生き延びる努力をしたのです。そのフランクルを支えたのは別の棟に収容された奥さんです。彼女も頑張って生きているだろうから、自分も生き残る努力をしたのです。彼は何とか生き抜いて戦争が終わります。その時知ったのは、奥さんは既に亡くなっていた。フランクルは非常に落ち込みます。生きる支えが無くなったのです。しかし或る時、この状況が逆だったらとふと思うのです。つまり、奥さんが生き残って自分が死んでいたら、奥さんもきっとガックリするだろう。その時自分は彼女に何という言葉を掛けるだろうか。奥さんにしっかり生きて欲しいと願うだろう。それなら今、彼女は自分に同じことを願っているに違いない。そこからフランクルは生きる力を得て、医者として努力を始めます。

 

 

 

 フランクルが収容所で生き抜くために自分と闘った、その事を村田選手は、自分との闘いの支えにしている。この事を私は最近、ひょんな事から知りました。ロンドンオリンピックの事も知りませんでした。自分との闘いにフランクルの闘いを支えにして闘っている。自分との闘いは、私たちの誰にでも起るのではないでしょうか。同時に、3.11の被災者の方々の闘いも私たちは覚えなければなりません。私たちが人生の主と仰ぐ、イエス・キリストがガリラヤを初め、各地の極貧の人々プトーコイ、病人を含めて弱く小さくされた人々、追い詰められた人々の絶望の中に身を沈めて下さったからです。その人々に寄り添って下さったからです。イエス・キリストを主と仰ぐからには、大震災の被災者の方々だけではなくて、いま深~い所で自分の絶望と闘っている人々に寄り添う祈りを私たちは、祈らなければならないと今、思っています。

 

 

 

 9年の歳月が、被災者の方々の深い傷を癒す事は決してないと思います。生きている限り、ずっとずっと続くでしょう。その意味で私たちもずっとずっと祈り続ける、その方々の絶望の深さを受けて祈ることが大事です。私たちの主イエス・キリストがガリラヤの極貧の人々の深~い絶望に身を沈めて下さったからです。被災者の方々の深い悲しみ・絶望をイエス・キリストが担っていて下さる、その事に導かれて私たちも祈り続ける事が出来ます 。イエス・キリスト お導き下さい。アーメン