「平和の道具 Ⅰ ユーモア」      2018年8月26日

 

 

   マルコ9:20~24     招きの詞マタイ5:9

 

 

 

 皆さま、お早うございます。皆さまと一緒に礼拝を守れる事を感謝したいと思います。また皆さまにお礼を申し上げます。この度の私の脊柱の治療の事でお祈りを頂きましとて、主イエスのお導きを本当にしみじみと実感しました。或はもう少し働けとイエスが仰っているのかもしれないとも思いました。しかしマザーテレサがこんな事を言っています。「倒れるまで一生懸命働く事も力以上に働く事も、して出来ない事はありません。でもどんなに働いてもそれが愛に基づいてなされていなければ、神の目には無駄な事でしかないのです。」気を付けます。本当にお祈りを有り難うございました。入院中に朝4時頃、関西のFM放送を聞いていました。チヤプリンの話が出てきました。彼の「独裁者」という映画の事でしたが、彼は自分の事を「平和の扇動者」と言ってたそうです。戦争や争いを扇動する者に対抗しての事です。「扇動者monger」という言葉ですが、この頃この言葉は辞書にも出ていません。今ならagitatorという処でしょう。「自分は平和に向かってアジを飛ばす人間だ」という事でしょう。この前平和を祈る話を致しましたが、私たちも平和に向かって何かをしなければなりません。それで今朝は「平和の道具 Ⅰ」とさせて頂きました。それは「ユーモア」という事です。ユーモアも笑う事、ジョークとか漫才とかではなくて、聞いて心がホッとする事でのユーモアを考えてみたいと思います。

 

 

 

 そこで最近、ホッとしたニュースをみなさんはご存知だと思います。例の2才の子を見つけたあの尾畠さんですが、あの姿もまたなにかユーモアを感じさせます。その人柄に、ああ、こんな方も居られたのだと思いましたが、私はこの方をアナログの人だと思います。アナログは直感型とも言えそうです。頭にタオルの鉢巻きをして、真っ赤なツナギを着てられます。これはボランティアをされる時にボランティアには時々、泥棒も混じっているそうで、自分はそうではない、ここに居るよと目立つためだそうです。アナログと申しましたが、尾畠さんは子供の本能を信じておられました。子供は真っ直ぐ上に昇っていく、横や下の方には行かない、それで2才の子の家を出て、30分後には見つけておられます。本能とか直感を大事にするアナログを感じます。

 

 

 

 戦争の為の道具は無限に在ります。次々に発明されて来ました。弓矢も生活の為には便利だったのですが、有力な武器になりました。国はお金をそっちに増額しています。そうすると産業が潤う。産軍複合体です。大企業がそれで潤います。イージス:アショアも膨大な金額に膨れ上がっています。もっと膨らむと思います。逆に平和を実現する、その為の道具には何が在るのだろうかを考えたいのです。戦争が無い状態も大事な平和です。でも私たちは本当に平和に過ごしているのか、日常生活上の平和も大事で、先ず私たち個人の平和は如何でしょうか。この意味では人々の幸福に関わる事です。しかし実は「幸福」という事が問題なのです。良い面と裏の面が有ります。僅かな事でも、そこで満ち足りた気持ちで有れば幸福ですが、あれが欲しい、これが在ると自分は幸せだと、豊かになる事を思い始めますと、争奪戦が起こって来ます。決して平和にはなりません。よく政治家が使う言葉に「明るく豊かな社会」が有ります。この「豊かさ」が問題です。

 

 

 

 尾畠さんの生き方にはユーモアが有ります。ボランティアをしていると、「写真を一緒に」とよく言って来るそうです。それで「うん、10枚なら良いよ」と言うそうです。何か生き方に余裕を感じます。ユーモアの原点がこの余裕と言う事ですが、それは有り余るほどに持っている事では決して有りません。例えば尾畠さんは月に5万5千円の年金だけで生活しておられる。お金が無くなったら、朝ご飯を食べて、昼と夜は食べない、それだけだ、とスカッと言われる。ここには悲壮感も被害者意識も有りません。「食べられない」ではなくて「食べない」。それだけで可としておられる。人をほっとさせる方です。聖書にはイエスが笑ったという記事が有りません。そこで中世のカトリック教会では修道院も含めて、笑ってはいけませんでした。笑いに関する本は禁書です。偉い上の方の司祭も財布を持っていませんでした。イエスが弟子たちに財布を持つなと言われたからです。財布は持たないけど、物凄い豪華な生活をしていたのです。形だけは守ったのです。

 

 

 

 マルコ福音書にイエスが笑った記事はありません。でも、ホッとする様な場面が私は幾つも在ると思います。その一つが悪霊に取りつかれた子を持つ父親の記事です。「イエスが『出来れば』と言うか。信じる者には何でも出来る。」とパッと言われた。この父親は間髪を入れず、「信じます。信仰のない私をお助け下さい。」と叫んでしまいます。思わず叫んだのです。イエスに「信じる者には何でもできる」と言われて、思わず「信じます」と叫んでしまったのではないでしょうか。その父親の姿にイエスは「真実」を見て下さったと思います。この父親はこれまで「信じます」と言っていたと思うのです。息子の事ではいろんな所に相談に行ったでしょう。祭司の所、律法学者たちの所も含めて。神殿では「ちゃんと献げものをして、神を信じなさい」と言われて「信じます」と言わなかったでしょうか。その時は思わず、叫んだのでしょうか。「献げものをしなさい」に心が引っかかっていなかったでしょうか。イエスから「信じる者には何でもできる」と言われた時に「信じます」と叫んで、今まで胸につかえていたものが、一気にほとばしり出たのではないでしょうか。

 

 

 今度の尾畠さんも、こんな人が、と思ってしまいますね。でもかれは大勢の警察よりも早く見つけましたね。思い掛けないことです。この様に思い掛けない事が起る、私が思い及ばなことが起こる、私が思う事も出来ない事が起る、では、誰も思っていないのでしょうか。よく尾畠さんは「おてんとうさま」と言われます。私たちからすれば、天のお父様でしょう。尾畠さんの場合には、おてんとうさまが思っていて下さったのではないでしょうか。私達の場合には天の父なる神が思って居て下さる、そしてイエス・キリストが思っていて下さる。それが私たちには思いがけない事なのです。でも父なる神が、そしてイエスが思って居て下さる事が、ひょっと、出来事として私たちに起る。その事に依って私達がホッとする。良かった、助かったと思う。その瞬間に私たちはイエスの出会っているのではないでしょうか。思いもかけない出来事、実はそこにイエスが居られる。そんな事を今回、感じました。私たちには先が見えない、そんな場面でも、思い掛けない出来事が起って、何か希望が持てる。それはイエスが思っていて下さるから起る。私たちには普段は分かりません。思い掛けない事ですから。でもその時にイエスと出会う。ホッとする出来事が起る。イエスが思って居て下さったから。その一場面が、この父親に起った出来事ではないでしょうか。アーメン