「イエスの掟」                 2018年211

 

    マルコ12:25~34  レビ記19:18

 

 

 

 皆さま、お早うございます。イエスがお一人お一人を覚えていて下さる事、それを出来事として、この様に起こして下さる事を心から感謝致します。また寒い中をお出かけ下さり、感謝申し上げます。先週は「教会よりも大事な事」ということを、聖書の「神殿よりも大事な事」から私が勝手に言い換えました。人に対して憐れみ深くする事、人を温かく思いやる事、これが神殿よりも、教会よりも大事とイエスは言われたのではないかとお話しました。今朝も似たような事になるかもしれません。先週は日本語の訳にこだわり過ぎて申し訳なく思っています。ただ皆さんは富士山を知らない方は居られませんが、その富士山の写真をずっと取り続けている写真家大山行夫さんが居られます。何千枚も撮って居られるのですが、そのフィルム式の写真機を自分で作って居られるのです。そのフィルムの部分の大きさが、このA4よりも大きい様です。テレビで見ただけなので、正確には分かりませんが兎に角大きいのです。それで富士山を撮り続けているのですが、富士山の形は大体分かっています。しかしその周り、例えば近い草木の様子、雲の微妙な様子を細かに撮る事で、富士山の姿がより印象的になるのだそうです。小さな所まで撮れる写真機を使っている訳です。

 

 私も、と申しますと少しおこがましいのですが、聖書でイエスが教えて下さった事を学ぶわけですが、イエスを信じてお願いしますと言えば済む事では無くて、聖書の言葉を丁寧にちゃんと読みたいと願うからです。時々細かな事を言って申し訳なく思いますが、富士山を囲む表情をちゃんと撮る事で富士山が生きる、それと同じ様に、私たちが聖書を読む時にも同じではないかと思うからです。私たちが生活している姿は実に様々です。ですから同じ言葉でもやはりその言葉の受け取り方が違ってきます。ですからなるべく細かに丁寧に読みたい、森に入って木ばかり見て森を見ないとも言われますが、逆に申しますと、聖書は大体こうなのだと高をくくっている事も在る様に思います。今日の聖書の個所はいつもですと、「神を愛しなさい、隣人を愛しなさい」は命令形ではなく未来形とか申していましたが、今朝は今まで言わなかった事を感じさせられているのです。

 

 このイエスが最も大事な掟の話をされる場面がどうして起こったのか、そこを疑問に思った事からです。そうしたら、この場面はイエスと律法学者たちが、謂わばけんか腰で言い争ってる場面なのです。11章に「エルサレムに迎えられる」という表題の場面からの出来事なのです。15節では神殿に行かれて商売をしている人々、両替人たちを神殿から追い出す場面も有ります。それで「祭司長たち律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどの様にして殺そうかと謀った」(18節)流れの中での一場面がこの対話の場面です。皇帝への献金の問答も有り、何とかイエスの言葉尻を捉えて、殺す口実を探しているのです。そんな中でイエスが立派に応答していかれます。そこで律法学者がこのイエスは律法を知っているのかとイエスに問う場面だと思います。律法学者ですから律法に詳しいわけです。一番大事な掟・律法は何ですかとイエスに突っかかる様な質問をしたのだと思われるのです。今まではこの事を思わず、ただ一番大事な掟についての教えの場面だと思っていました。その内容だけを読んで来ました。今は、何故、律法学者はこんな質問をしたのか、この律法学者の思いを少し、考えて読んでみました。

 

律法で一番大事な掟は何か、こんな言い方が普通ではないと思われます。大体、十戒は十の戒めが在る訳で、その最初は「神は自分しかいない、他の神を拝むな」で始まりますが、一番大事な戒めはこれであるとはなっていないのです。イエスが言われる第二の掟はレビ記に出て来ます。それが第一に続く、第一と同じだとイエスが答えるとは律法学者は予想もしなかったでしょう。つまりイエスは(旧約)聖書の律法に詳しい、こんなレビ記の律法を知って居られたのです。律法学者は予想もしていなかったでしょう。ところが、イエスはちゃんと第一の掟はこれである、十戒の一番目を捉えた答えをされます。その答えに律法学者はグウの音も出ません。イエスの言葉尻を捕らえるつもりで居たのに、「神を第一に愛しなさい」とイエスが間髪を入れず、ピシャッと言われた、これに律法学者は驚き感心したのではないでしょうか。それを畳み込む様に第二はこれであると予想もしていなかった答えです。「自分と同じように隣人を愛しなさい」とレビ記からの掟をイエスが言われました。第二も第一と同じだと言われて律法学者は圧倒され飲み込まれてしまったのではないでしょうか。イエスの知識と想いの深さに圧倒されて「先生、おっしゃるとおりです。」と言って終ったのです。律法においては第一人者の学者がイエスを試して言葉尻を掴もうとしたのに、逆にイエスに圧倒されて言う言葉が無く、イエスが言われた事を「あなたがおっしゃたことは本当です」と追認し、肯定して終ったのです。この様にこの問答の場面を想像しました。

 

 イエスを試すつもりが「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、隣人を愛するという事はどんな焼き尽くす献げものやいけにえよりも優れています」と、律法学者は大きくひっくり返されました。この焼き尽くす献げものよりも優れているという言葉は先週の「神殿よりも大事なこと、わたしが求める事は憐れみであって、いけにえではない」(マタイ12:7)と同じです。この答えを律法学者自身がして終います。「あなたが言われたことは本当です!」と言って終います。神は隣人に暖かい思いやりが大事だとイエスに言われた途端に、「そうです!」と律法学者は心を突き抜かれたのではないでしょうか。これまで律法の勉強はしっかりして来ました。でもこの律法学者はこれまでに、本当に辛い思いをした事があるでしょうか。生きる事に於いて辛い思いをした事があるでしょうか。或は燐人の悲しみを受け止めた事があったでしょうか。多分、この律法学者にはそんな事は無かったと思います。自分に無かったことをイエスに逆に突かれてしまったのだとこの場面を読めないでしょうか。

 

 今まで辛い思いをした事が無い、隣人の悲しみを心から受け止めたことが無い、その自分に向かって、最も大事な掟は自分と同じように隣人を愛する事だとイエスに言われて、「その通りです」と言って終いました。ですからこの律法学者には二重にショックだったのではないでしょうか。一つはこのイエスは律法をよく知っているという事、律法を知らないだろうから言葉尻を捕らえられると思っていたのに、よく知っている事が判った事です。と同時に自分の弱点を律法を通して、突いて来た事です。律法を教えるだけで、辛い思いも悲しい思いもした事が無い事を、律法という形でイエスに突かれて終ったのです。でもこの律法学者はこの後、どんな生き方をしたでしょうか。やっぱり人々に律法の細かな事を強制すような事をしたでしょうか。本当に貧しい人々を大事にしたでしょうか。その姿は私たちも同じだと思います。この律法学者はイエスに対して、「あなたの言われる事は本当です」と参って終ったのですが、本当にその様に生きたでしょうか。私たちもこの掟を聴きます。イエスから受けます。しかし、この掟に従って私たちは生きるでしょうか、生きているでしょうか。ここです。「隣人を自分自身の様に愛する事は出来ません」という事は出来ますが、少しでも、一歩でもその思いになって、人を温かく思いやる事、人に対して憐れみ深くする事、この事を本当に心がけた生き方をしているでしょうか。実は、している、していない、ではなくて、この教えの中に私たちは招かれている、励まされているのです。

 

 「人を温かく思いやる事は大事ですよ。私に付いて来なさい。」という生き方に添って人を大事にする、その様にイエスご自身が生き抜かれたと思います。イエスがその様に生き抜かれたその後に付いて、私も小さな歩みであっても「付いて来なさい」と言っておられると思います。律法学者はその応答では確かに圧倒されました。しかし芯からその様に生きる様になったかどうか、それは私たちも同じなのです。この掟を学びました。では本当にこの事が私たちの生き方になるか、この事を私が皆さんに迫るのではありません。皆さんと共に、イエスが大事にされたこの生き方を、少しでも共に歩みましょう、少しでもイエスの後に付いて行きましょう、という思いを今、頂いています。イエスの人を大事にする生き方に私たちは招かれているのだと思います。祭司長たちや律法学者たち、サドカイ人たち、ヘロデ党の者たち、様々な権力を握った人たちがイエスを殺そうと諮ったことの中で、イエスは確実に殺される事を思われながらも、イエスは弱く小さい人々を温かく思いやりの心を貫いて下さいました。アーメン