「第二の掟と私たちの生き方」   2018年12月2日

 

 マルコ12:28~34  招きの詞レビ記19:17~18

 

 

 

 皆さま、お早うございます。ロウソクが一本立ちました。アドベント第1週です。イエスのご降誕に相応しいクリスマスを迎えたいと願います。今朝は「第二の掟と私たちの生き方」と題して、先週の「第一の掟」の続きになります。第一は一つしかありませんし、第一を聞かれたのに、イエスは敢えて第二の掟を語ります。これは第一とは切り離せない、表と裏の様な事で、第一を考える時には第二を当然考えるべきなのです。第一とは切り離せないのです。先週も話したフランクルを支えたのは、別の棟に居る奥さんへの思いでした。彼女も自分の為に頑張って生き貫こうとしているのだから、彼女より先に死ぬわけにはいかないと思ったのです。これこそ第二の掟で言われている、「自分自身の様に隣り人を大事にしなさい」という事だと思います。つまり自分が生きる事は隣人が生きる事であり、隣人が生きているから自分自身も生きている、という事です。彼女が生きているからこそ自分が生きている、そんな思いだったでしょう。でも戦争が終わると、奥さんは既に亡くなっていました。フランクルはがっかりして絶望の淵に落とされます。自分は彼女に何をしてやれたのか、苦しみます。そんな時にふと思ったのです。もし、立場が逆だったら、つまり自分が死んで、彼女が生き延びていたら、自分は彼女にどう生きて欲しいと思っているだろうか、と考えたのです。彼女らしくしっかり生きて欲しいと思うだろう。それなら、今、彼女は自分に同じように思ってくれているに違いない、と確信したのです。その事に気がついてから、フランクルはしっかり生きようと決めたのです。彼女の思いを見に受けて。

 

 

 

 人は元々、一人で生きる様には創られていません。天緒創造の時にも、沢山の動植物がアダムの周りに居るのですが、アダムを助けるものが居ない事に神は気がつかれます。そこで「彼に合う助け手」を創ろうと、創世記2章に書かれています。これは神話ですが、アダムには助け手が出来たのです。人は複数で助け合って生きる、社会を形成して生きています。マンモスの様な大きな獲物にも群れで狩りをしました。農業の世界でも、田植えは上の田んぼから田植えをしなければなりません。そこは助け合わないといけません。だからこそ、問題が生じるのです。自分たちの群れが、楽しく豊かであれば、他の群れから狙われたり、折角の良い狩場が他のグループに荒らされてしまうと、戦いを仕掛け、争いが生じます。群れで生きなければなりませんが、対立が起こり争いが起こります。その状況に神が平和を宣言される、それは彼らが再び愚かな行為に戻らないように、という聖句が、のぞみ伝道所の今年の主題聖句です。対立を超えて、平和に生きる様にと、神は願って宣言されているのだと思います。似たような事は、無くてはならない物ほど、起ります。水は無ければ生きられません。しかし、大水は大災害を引き起こします。びっくりするほど大きな石が流されています。塩分は必要ですが、私は取り過ぎないように言われています。酸素も必要ですが、活性化酸素は体に毒だと言います。私たちに太陽は必ずなければなりません。今日のお日様は穏やかですが、砂漠の太陽は生き物を殺します。ですから乾燥地帯の宗教は厳しいです。

 

 

 

 先週、もう一人挙げた人はボンヘッファーでした。彼は生き延びる事が出来ませんでした。彼には奥さんはいませんでした。しかし、彼は牧師でしたから教会の人々が居ました。更に戦争の渦の中に巻き込まれている大勢の人々、ユダヤ人を初め迫害されている人々が居たでしょう。そしてボンヘッファーには誰よりもイエスが居ました。イエスは人が複数で生きなければならない事をご存知でした。ですから隣人を大事にして生きる様に促されたと思います。でも、イエスの隣人とは誰でしょうか。良きサマリア人の話でも、律法の専門家が「では、わたしの隣人とは誰ですか」と尋ねました。この場合は傷つき倒れている人です。人は複数で生きなければなりませんが、イエスの目には更に、傷つき倒れている人も隣人として見えていたのです。「だからあなたも行って、同じようにしなさい」と言われました。隣人とは単に複数で出会っている人々だけではなくて、いま傷つき倒れている人の事だと思います。

 

 

 

英語のGood News Bible は、罪人を sinner ではなくoutcast(疎外されている人)と訳しています。社会から外に放り出されている人の意味です。病人とか怪我している人、貧しい人、その様にユダヤ社会から外に投げ出されている人を罪人と考えています。罪人とは、神の言葉を、戒めを守らない人々だと決めつけ易いのですが、私はこの「疎外されている人」の方が、実際に当時のユダヤ社会で「罪人」と決め付けられていた様に思います。いま、この様に疎外されている人々とは、世界中に溢れている難民がいます。誰も助けようとしない、此処にも居れないけど、何処にも行けない。ですから少しでも希望が有りそうな所へ向かうしかありません。更には、差別されている人々、部落問題も実に深い問題です。アメリカその他での人種差別も根深い問題です。高齢者が差別されて、社会の隅に追いやられています。紛争地で弱く貧しい人々は、他に逃れる事も出来ず、いつ命を落とすか分からない。拡大していく経済格差、貧困層は増すばかりです。これを何とか解決しようとする政治家も経済人もまったく見ることが出来ません。

 

 

 

 中国はいま、アメリカと貿易戦争が出来るほどに大きくなりました。この様に中国が変わったのは、例の小柄な鄧小平の開放路線からです。「先に豊かになれる者から、豊かになろう」という経済の開放政策を始めました。力有る者は豊かになりましたが、犠牲となっている地域は、飲み水さえ汚染されてしまっていますが、都会中心主義で市場経済主義で、金になることが優先されてしまっています。公務員も上級の者たちは別荘を持ち、優遇されていますが、貧しい下層の人々の事は手を付けません。自分たちの権利が守られる事が大事です。日本も全く同じです。大きな事業で儲かる大企業、ゼネコンのために、何か大きな事をやります。オリンピック、今度は大阪の万博など、格差が広がる事でしょう。沖縄の問題やフクシマの問題など問題は在るのです。しかしそれを誤魔化すかのように、別の事業をどんどん展開していきます。すでに取り残されて人々の事を誰も手を付けようとしません。ボンヘッファーは亡くなりましたが、彼の目の中から取り除ける事が出来ない、教会の人々や戦争の犠牲になっている人々、ユダヤ人やひどい迫害に遭っている人々をボンヘッファーはしっかり見ていたと思います。

 

 

 

 自分の命が危ない事は分かっていました。でも、神の正義を、神の弱く小さな人々を大事にして下さる思いを大事にして、ボンヘッファーは生き抜いたと信じます。だから私たちは、彼の死に感動します。何とか彼に学びたいという気持ちになっています。いま傷ついている人々、社会から放り出された人たち、とにかく今日一日を生き延びようとしている人たち、この様な人たちの事をしっかり覚える事も、クリスマス・アドベントに於いて、大事な準備ではないかと思っています。イエスご自身がその様な人々をしっかり見据えて、訪ね歩き、励まして下さいました。そのイエスを神の御子として迎える心備えとして、傷ついている人々、追い出されている難民や病人、政治の谷間に捨てられている人、この様な人々をしっかり覚えて祈らなければならないと思います。「あなたも行って、同じ様にしなさい」と言われるイエス・キリストを私たちは迎えるのです。

 私たちは隣人が居なければ、生きれない存在である事を、身を以て教えて下さった、御子イエスキリスト 来たりませ! 感謝 アーメン