「真の文明は人を殺さざるべし」    2020年年8月9日

         平 和 祈 念 礼 拝

マタイ6:25~26     招きの詞 ルカ8:11~15

 

 皆さま、お早うございます。お話をする前に、皆さまにご提案です。今日9日は長崎原爆投下の日です。11時過ぎに糸島市のサイレンが黙祷の為に鳴りますので、私もお話を中断して、ご一緒に黙祷をしましょうか。宜しくお願い致します。コロナ感染症が新規に1,568増えて、只今合計14,240人が罹っています。お盆の帰省とも重なっています。前回の緊急事態宣言の時よりも悪くなっています。若者を初め、自分は罹らないという何の根拠もない自信で広がっている様です。私たちもしっかりした意識が必要です。礼拝をこのまま継続して良いのか案じています。後のFMで話し合いましょう。今朝は平和を祈念する礼拝です。タイトルを先週紹介した田中正造氏の言葉にしました。平和を祈る事は、戦争が無いだけではありません。

 

 日本は明治維新以来、内戦(維新の政府軍と幕府軍)や外国との戦争を繰り返して来ました。1894年に日清戦争、1904年日露戦争、1931年満州事変、1937年盧溝橋事件からシナ事変、そして大東亜戦争です。戦争には国民を動員するための大義名分が必要です。東アジアから欧米を追い出して大東亜共栄圏を作るというものでしたが、実際は欧米に代わって日本が支配する意図でした。明治維新以来、日本は「脱亜入欧」を目指して、世界の列強の仲間入りを果たしたかったのです。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア等に並ぶ事でした。日露戦争にやっと勝って列強の一員になったと勝手に決め込んだのです。しかし、この日露戦争に要した莫大な軍事費を、アメリカが日本の国債を買ってくれたから、何とか賄えたのです。この経済の事を日本の軍部は無視したか、理解出来ていなかったのです。大東亜共栄圏とは名ばかりで日本の支配権確立が目的でしたが、アメリカの経済封鎖に遭って、資源に乏しい日本は、東南アジアの、石油、鉄鉱石、ゴムなどの資源確保の為に、東南アジアにも手を出したのです。戦争の本当の原因は先ず、経済の問題です。お金の問題が大きいのです。

 

 ヨーロッパを見ますと、第一次世界大戦の結果、この時日本は連合国側でしたが、1919年にベルサイユ条約がドイツと英・仏・米を始めとする連合国側と結ばれました、この時、ドイツに対してとても払いきれない額の賠償金が課せられたのです。この時の恨みが、次の第二次大戦の遠因になったと言われています。この賠償金に英国もフランスも、そしてアメリカも強硬でした。アメリカ代表はウィルソン大統領でしたが、陰で、経済界からのモルガンが特に強硬だった様です。皆さんはヒトラーを悪人と思われるでしょう。ではアメリカの自動車王フォードは如何ですか。そんなに悪人とは思われていませんよね。ヒトラーが軍備を始めて工業力が必要になりました。軍用車両などが必要です。フォードはドイツに子会社を作って、利益を手にして居たのです。個人的にもフォードはヒトラーを尊敬していました。

 

 現在の世界を見ますと、中国とアメリカの争いが激しさを増しています。中国は、世界の工場となって、急速に経済力が大きくなりましたが、ご多分に漏れず、富国強兵の道を驀進しています。世界中に手を広げてアメリカとお互いに引き込みがつかない程対立しています。戦争が起こる可能性が日々大きくなっています。いや、戦争は既に実際に起こっています。イスラム文明と欧米キリスト教文明との間には、すでに戦争が始まっています。戦争の問題は、直接私たちが関わるには力が在りませんし、難しいです。しかし、戦争の原因の経済の問題、お金の問題となれば、つまり広く言えば、文明の問題になりますので、ここでは私たちも関わっている、或は、関わる事が出来ると言えます。

 

 イエスの時代は、ヘレニズム文明、つまり、ギリシア・ローマの文明の時代です。ギリシア人をギリシア語でヘレンと言います。ローマも大きく言えば、ギリシア文明の中に在ると言えます。ギリシアは都市国家群でしたので、大帝国は出来ませんでした。しかし、北のマケドニアからアレクサンダー大王が現れて、地中海世界のあちこちに、アレクサンドリアという名前の都市を残しています。ローマで有名な人物はシーザーですが、カエサルとも発音され、やがてドイツ皇帝カイザルの語源です。ギリシアもローマもたくさん戦争をしました。戦争の時代、人を殺す文明の時代と言えます。もちろんそれ以前にも、アッシリア、バビロン、エジプトなど人を殺す文明が在りました。つまり、人間の歴史は富と権力を求める歴史、文明なのです。ローマ軍が侵略した跡は、スコットランドにまで今も残っています。フランス、ドイツに大森林地帯が残っていないのは、ローマ軍の北上に連れて、製鉄の為に森を伐採したためです。

 

 ユダヤ教の世界を見ると、私たちには旧約聖書しか無いのですが、旧約聖書には大きく二つの流れが在ります。一つはモーセ五書、モーセに由来する歴史書です。創・出・レビ・民・申命記の五つですが、別名、律法の書と言われます。十戒は出エジプト記に出て来ます。申命記4:44には「律法の前書き」との言葉が在ります。そしてこの五書の流れは、ヨシュア記、士師記、サムエル記上下、列王記上下、歴代誌上下と続き、ダビデ王に辿り着きます。ヘブライ語のメシアは、神に祝福の香油を注がれた人の意味です。サウル王もダビデ王も祝福の香油を注がれました。ユダヤ人はこのダビデ王の様なメシアを待ち望んでいました。

 

 もう一つの大きな流れは、イザヤに代表される預言者の書物です。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル書などです。イザヤ書の第一に大きな預言は、苦難の僕の出現です。苦難の僕は、ダビデ王と正反対の人物像です。イザヤ書9章に先ず、書かれています。第二のポイントは、貧しい人々に対する眼差しが書かれています。4章8節以下には、「富める者の横暴」が出て来ますし、61章以下に、「貧しい者への福音」が出て来ます。この預言者の流れをイエスは受けていると思われます。マタイ4:12以下で、イエスがガリラヤに現れた記事では、「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と在ります。他にもマタイ12:15以下にも「神が選んだ僕」と在って、「イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」(17節)などが在ります。これに対して、モーセ五書、律法の流れが、神殿宗教、律法主義になっています。

 

 イエスは富と権力を求める方では在りませんでした。貧しい人々が生きるための、真の文明の道を求められたとも言えます。イエスは誰一人殺しませんでした。逆に、神殿宗教者、律法学者、そしてローマの権力によって殺されました。ガリラヤの弱く貧しい人々と共に、真の文明、平和への道を求められたと言う事が出来ます。私たちはイエス・キリストによって、自由を与えられています。しかしパウロも言うように、自由を自分の肉の欲を満たすために使うのを止めましょう。現代は、自由を求める事は、豊かさを求める事と表裏一体になっています。しかし、私たちは、何を食べようか、何を着ようかと豊かさに心を使うのではなくて、慎ましく生きる道を歩んで行くべきではないでしょうか。イエス・キリストが歩まれた道です。それが遠回りでも、平和に至る道であると信じます。

 

 イエス・キリストは財布も食べ物も求めず、貧しい人々の病、悩み、苦しみを担って共に歩まれました。真の文明の道、平和への道だと信じます。今も、私たちと共に歩んで下さる道です。イエス・キリスト 感謝 アーメン