「福音を聞いて信じたから」      2020年8月23日

 

ガラテヤ3:1~6     招きの詞ローマ13:8~10

 

 

 

 皆さま、お早うございます。暑い中をご出席下さり、感謝申し上げます。コロナ感染症、福岡県は昨日68名が新たに発症し、特に高齢者の重症者が問題になっています。また猛暑で高齢者の熱中症も多いですね。夜に罹る事が多いそうです。皆さま方が守られます様にとお祈り致します。今日は松井兄の洗礼式を予定していましたが、ひょんな事から準備の学びの時間が無くなって、延期します。ご本人にも了解を頂いています。私自身は残念に思いますし、松井兄を決心にまで導いて下さったイエス・キリストがどの様に思っておられるか、申し訳ない気持ちです。「お前のする事は、こんな事なのか?」と言っておられる様にも思います。思いを新たにしっかり準備して、松井兄の信仰決心をイエス・キリストに受けて頂きたいと祈ります。私たちと共にイエス・キリストが居て下さるという信仰を頂いていますが、これは別の見方をすれば、キリストが私たちにキリストの霊を与えて居て下さる事です。

 

 

 

 この事をパウロはガラテヤ書でこう言っています。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つ確かめたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか、それとも、福音を聞いて信じたからですか。」(3章1節以下)私たちはイエス・キリストの十字架の死によって、罪を贖われ、罪を赦されて救われたとよく言われます。二千年、そう言って来たと思います。私がこの事を言わないので申し訳ないのですが、その様に信じておられる方々にも少しでも理解してもらえるように私なりに聖句を選び、語る努力をしているつもりです。限界は在ります。今朝のガラテヤ書の言葉、「あなたがたは十字架によって“霊”を受けたのではないか」。この言葉は「罪の赦し」を語っては居ないのですが、少しはそれに近い言葉として、受けて貰えるのではないかと期待しています。この「霊」はキリストの「霊」です。これを命と言っても良いかと思います。十字架の上で、イエスは大声で叫ばれて「息」を引き取られました。この「息」が「霊」を指す、プネウマなのです。つまり、命を引き取られたのです。

 

 

 

 「霊」を「スピリット」と英語に訳されていますが、スピリットは何かに向かって「生きる力、生きる気力」を指す言葉として、日本でも良く用いられます。その生きる力、気力をイエスから頂いて生きる私たちは、何に向かって行くべきなのでしょうか。私たちは何を大事に生きるべきなのでしょうか。主イエス・キリストのお導きを祈っているのか、主イエスに従う気持ちは在るのでしょうか。主イエスは何が大事だと教えられましたか。私たちが忘れがちで、実行を中々伴わないのが、「隣人を自分と同じ様に愛する事」です。パウロも招きの詞で読んで頂いた様に、ローマ書で言っています。ここで「愛しなさい」と命令形で日本語に訳されていますが、元の言葉は「命令形」ではなく、「未来形」なのです。マタイ、マルコ、ルカに出て来るイエスの教えも同じです。これはレビ記19:18に出て来ます。旧約聖書はヘブル語ですが、ユダヤ人たちもヘブル語が難しいので、ギリシア語をよく使いました。七十人の学者たち、宗教者が集まって、ヘブル語をギリシア語に訳しました。これを「七十人訳聖書」と言いますが、この聖書でレビ記の所をギリシア語で未来形に訳しているのです。命令形では在りません。隣人とは誰の事かと律法の専門家がイエスに尋ねます。ルカ10章でイエスは「善きサマリア人」の例え話をされます。そしてその話の最後に、律法学者に向かって、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われますが、この「同じようにしなさい」は命令形です。

 

 

 

 私たちは隣人を見るつもりが在れば、誰でも見えるのですが、私たちが隣人として見ようと中々しない隣人が居ます。それは大きな「権力、軍事力、経済力」の犠牲者、そしてその方々の魂や霊です。その現実をその力は隠すのですが、見ようとすれば、或は、見ようとしなければ、見えない隣人が居ます。日韓問題は今うまくいっていませんが、在日韓国の人々の戦前、戦中、特に戦後の姿です。松岡姉も大きな関心を持って取り組まれました。その象徴的な場と状況が「筑豊」です。戦前、戦中、戦後と国のエネルギーの根幹を担って来ました。そこには深い闇の世界が横たわっています。上野英信の作品が幾つか有ります。犬養先生は、その国策の犠牲となった筑豊の炭鉱夫の人々、朝鮮から連行されて来た韓国の若い人々、地の底でこき使われた労働者の問題と、その後に取り組まれました。正に異邦人のガリラヤに、イエス・キリストの光を輝かせようとされました。

 

 

 

 もう一つ身近な隣人を上げれば、沖縄の人々です。江戸時代の島津藩による搾取、その後ずっと続きます。戦争中の沖縄戦、本土防衛の準備の時間稼ぎのために捨て石にされたとよく言われます。沖縄戦の原因には、アメリカの事情も在りました。アメリカは元々、ニミッツ提督の海軍力でハワイ、ミッドウエーから真っすぐ西に日本本土を目指す計画でした。ルーズベルトもその戦略でした。これにマッカーサーが反対しました。彼はフィリピンから脱出しましたが、フィリピンにたくさんの資産を持っていたので、ぜひともフィリピンを奪回したかった。そこでニューギニア、フィリピンと島伝いに進み、フィリピン奪回後に北上して、沖縄、九州と攻める戦略を主張し、認められた結果なのです。この沖縄戦で沖縄の人々が大きな犠牲を払いましたが。米軍も犠牲が大きかったので、本土戦ではもっと犠牲が出ると予想し、それを避ける為に原爆を落としたと言われます。沖縄の戦後も米軍の占領下で過酷な生活を強いられました。詳しくは避けますが、人権、基地の土地問題など米国の横暴に対して、沖縄の人々は団結して戦いました。十五万人が抗議に集まった事も在ります。そのリーダーとなったのが、瀬長亀次郎氏です。とても小柄な人でしたが、心のとても広い人で、どんな目に遭っても笑顔で居た信念の人だったそうです。アメリカは沖縄の人々の抗議を共産主義のせいだとして、弾圧しました。亀次郎氏は刑務所に2年間入れられました。その経歴の為に那覇市長の職を追われたりもします。彼の言葉に、「一人二人の声はどこにも届かないが、百人、千人、何万人となれば、その声はアメリカに届く」と言いました。実際、届きました。

 

 

 

 沖縄は本土復帰しましたが、米軍に対する日米地位協定によって、未だに大きな格差が存在します。それに沖縄の人々は今も苦しんでいます。瀬長亀次郎氏はクリスチャンでは在りませんでしたが、郷土沖縄を大事にした、神の力によって戦った一人だと信じます。私が今朝、申し上げたい隣人は、歴史の中で捨てられた犠牲者の人々の事です。イエス・キリストはガリラヤにこだわり、貧しく弱くされた人々の所に向かわれました。また、罪人と呼ばれて差別された人々の所に、徴税人もそうでした。私たちが見ようとすれば、見えるのに、中々見ようとしない隣人の事を、イエス・キリストの「霊」スピリットを頂いて、イエス・キリストがこだわられた隣人のことを、見て、聞いて、覚えて祈らなければなりません。私たちは、イエス・キリストの霊・スピリットを受けたのですから。

 

 

 

 キリスト者個人、そしてキリストの教会の、隣人を、歴史の暗闇に捨てられた人々を、覚えて祈る責任を覚えます。それは、異邦人のガリラヤと呼ばれて、捨てられた場所、そこに住む病人を、罪人を大事された、イエス・キリストの霊・スピリットを受けて、生きる事です。私たちを導いて下さい。のぞみ教会の群れを導いて下さい。今も弱く小さくされている多くの方々をお守りください。 主イエスの名によって祈ります。アーメン