「平和の主ご自身が」     2019年8月11日 、 

 

第二テサロニケ3:16  招きの詞ローマ書16:19~20

 

 

 

 皆さま、お早うございます。連日の猛暑ですが、体調は大丈夫でしょうか。先程は知子姉が証をして下さって、本当に有り難く伺いました。喜び悲しみ苦しみを共にするこの小さな群れで在りたいと願っていますので、感謝ですし、また他の方々にもいろんな事がお在りだと思いますので、喜びだけでなく、お互いに分かち合いたいと願います。有り難うございました。8月15日が敗戦記念日で、平和を祈る月になっています。現在は戦争の只中に生き抜いた方々が、ご高齢で段々少なくなっています。今まで何も語らないで来たけど、次の世代に何かを残さなければと思われる方の話を時々、耳にします。心を開いて伺いたいと思います。

 

 

 

 6日に広島市、9日に長崎に原爆が投下されましたが、昨日か9日の西日本新聞に長崎原爆のキノコ雲の写真の、はるか彼方に、小さな黒い煙の塊が写っているのですが、それが実は鹿児島県串木野を、米軍が爆撃した黒煙だと確認されたそうです。如何にこの戦争が所構わず被害を与えたか、もう少し早く、終戦を決めていたら、戦場も、沖縄も、その他各地の被害も食い止められたと悔やまれます。天皇の玉音放送の後、海軍の宇垣中将は、海軍中津留達雄大尉に操縦させて、沖縄の米軍に特攻をします。夜の沖縄では米兵たちが明々と灯りを付けて、勝利を祝っているその中に突っ込もうとします。しかし、中津留大尉はその頭上を越えて、山に突っ込みます。(城山三郎著「指揮官たちの特攻」~幸福は花びらのごとく~)正義、大義のもとに戦争は行われるのでしょうが、誰が被害者になるのか。今また核兵器や最新の技術の軍拡競争が始まっています。日本では戦後、戦争は在りませんでしたが、朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして最近は、シリアなどの内戦や、宗教的な神の名によるテロなど、世界ではずっと続いています。最近きな臭い匂いがしています。永久の平和は地上の国には訪れないのではないかと悲観的になります。何千年の人間の歴史で、平和の時はどれくらい在ったのでしょうか。国と国との戦が無くても、人間同士の戦いが在ります。私たちには祈るしかないのですが、どうしたら平和を実現できるか、というよりも、平和はイエス・キリストから与えて頂く以外に無いようにすら思えます。

 

 

 

今朝はテサロニケ第二の手紙から学びたいと思います。先週、第一のお話をしまして、紀元50~51年にパウロによってコリントで書かれたと認められています。テサロニケには既にユダヤ人たちが居て、キリスト信徒を迫害します。パウロも逃れて、アテネからコリントへ辿り着き、そこからテサロニケ教会の信徒に、よく耐えて信仰を守って頑張っていると手紙を書きました。第二はパウロ名が使われているのですが、パウロ自身が書いたのか、パウロの死後、誰かがパウロの名を使って書いたのか、議論が分かれています。時間が経つにつれてパウロの書ではないという意見が多くなっています。パウロが書いたとすれば、第一の数か月後とされていますが、違うとなれば、書かれた時間はかなり幅があります。一応、紀元70年のエルサレム神殿崩壊の前で、60年代後半ではないかと考えられています。しかし、この第二の手紙は世界に影響を与えました。共産主義の創始者の一人レーニンが1919年、100年前に書いたのが、「働かざる者、食うべからず」です。社会主義の実践的戒律と言われる言葉です。第二の第3章10節に、「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました」と在ります。これがレーニンの言葉になったと言われています。

 

 

 

なぜ、働きたくないのかと申しますと、テサロニケ教会の信徒たちは、ユダヤ人の迫害が激しかったので、なるべく早く再臨が在って、この世が終末を迎える事を強く望んでいたのです。もうすぐ終わりなら、働く必要が無いという思いも出て来ました。信仰を守る人々の中に、そんな気持ちの人も居たわけです。そうした思いが広がり始めていました。その状況に対するパウロの戒めの言葉なのです。働く気持ちは、生きる価値につながる事です。ユダヤ教の律法主義が強く散らされたユダヤ人に影響していた中で、キリストを信ずる者たちを迫害したのです。でも、もうすぐ世界が終わる終末という事に関して詳しくは説明できないのですが、このテサロニケ書に出て来る終末論は、旧約聖書の中でも、後期ユダヤ教黙示文学に近いものだそうです。新約聖書では「ヨハネの黙示録」があります。

 

 

 

 今朝は、「平和の主ご自身が」という言葉に注目しました。イエスのお働きを学びたいのです。「平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。」と祈りの言葉とも取れます。平和の主は、イエス・キリストの事です。主イエス・キリストご自身が、どんな場合にもあなたがたに平和を与えて下さる事を祈っています。平和と申しますと、平和は私たちが生きる全ての場面での基本です。最も大事な事だと言えます。お互いに平和で在る事は大事です。イエス・キリストが、平和、私たちが生きる事の基本、平和を与えて下さる様にという言葉です。主イエスが私たちを平和に過ごせるように治めて下さい、とパウロは願っています。

 

 

 

 神が私たちを平和に治めてくださる様にと、パウロの根本的な祈りだと思います。ご一緒に読みましょう。第二3章6節からです。「兄弟たち、わたしたちは、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいるとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、タラき続けたのです。援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちを倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じました。ところが聞くところによると、あなた方の中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で働いたパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。(中略)しかし、その人を時とは見なさず、兄弟として警告しなさい。」問題が在って苦しい時にも、落ち着いて働いてパンを食べる事が、平和に生きる基本だ、とパウロが教えています。平和のために祈って参りましょう。主よ、導き給え。