「会衆主義」バプテストの特徴Ⅱ   2019年11月17日 

 

  ヨハネ13:34~35   

       招きの詞第一コリント12:12~13

 

 

 

 皆さま、お早うございます。ご報告ですが、のぞみ教会もやっとバプテスト連盟に加盟できました。皆さまのお祈りとご協力のおかげです。感謝申し上げます。では、バプテストとはどんな教派なのか。先週からバプテストの特徴を見直しています。今朝の中身は先週の「万人祭司」と殆ど同じと思いますが、会衆主義、つまり民主主義という事を考えてみましょう。これは先ず会員のお互いに上下関係が無い、という事です。皆が同じ立場で集まっています。人々が集まって来て、一緒に何かをする事でもあります。それぞれ賜物は違いますが、いろんな人々が集まって、一緒に何かをするのです。ですから、バプテスト連盟も上に立つ教会も組織も在りません。連盟事務所が上では在りません。皆、同じ立場で協力する関係です。それだけに、連盟を構成している各教会、また各教会もそれを構成している各教会員がお互いに協力する働き人でなければなりません。また、お互いを理解し合う必要が在ります。コミュニケーションが大事です。今度の総会でも、お互いに意見を述べ合う、大事なコミュニケーションの場であったと思います。初めてでしたので、殆どの方を知りませんでした。

 

 

 

 連盟に対して協力伝道献金をしていますが、これは決して上納金ではありません。お互いに考えて決めた事を、お金を出し合って、実現していくためのものです。総会に出席するのに、小さな教会には、旅費の一部が補助されました。会衆主義でお互いに同じだと言っても、先ずお互いを傷つける事は慎まなければなりません。お互いへの尊敬、お互いに大事にする事が必要です。今朝のヨハネによるイエスの言葉がそれを語っています。「新しい掟を与える。お互いに愛し合いなさい。」と言われた事が基本になければなりません。この所を本田神父は、「私はあなたたちに新しい掟を与える。互いに大切にし合いなさい。私があなたたちを大切にしたように、あなたたちも互いに大切にし合いなさい。あなたたちが互いに大切にし合うなら、そのことによって、あなたたちが私の弟子である事をみんな納得するだろう」と訳しています。岩波版では、「新しい命令をあなたがたに与える。あなたがたも互いに愛し合うようにと、私はあなたがたを愛した。同じ様にあなたがたは互いに愛し合いなさい。あなたがたが互いに対して、愛を持つなら、それによってあなたがたが私の弟子であることを全ての人が知る様になるであろう」と訳されています。

 

 

 

 気仙語の山浦ドクターは、「ガリラヤのイエシュー」という四福音書の訳の中で、「新しい掟をお前たちに与える。お前たち、互いに相手を大事にし続けろ。俺がそなたらを大事にしたように、そなたらも互いに相手を大事にし続けろ。そなたらが、互いに大事にしていれば、それを眺めた人たちはみな、そなたらが俺の弟子だとわかるだろう」と訳しています。「大事にし続けろ」と訳されていますが、ギリシア語では、過去を示すアオリスト形の命令形は、「○○をしなさい」と行動する事がポイントです。これに対して現在形の命令形は、○○を続けて行動する事がポイントです。普通「勉強しなさい」とはその時だけではなくて、勉強し続ける事を意味している場合が多いと思います。愛しなさいとか大事にしなさいと言っても、それを続ける事が大事です。それを山浦ドクターはちゃんと訳しています。その様に、し続けるとは、その様に生きなさい、という事です。お互いを大事にする様な生き方をしなさいという事です。これが会衆主義の基本に無ければ、ただの烏合の衆に過ぎません。

 

 

 

 お互いに支え合うのですが、もたれ合って自立していなくては会衆主義にはならないと思います。いわゆる民主主義は、皆が一人前で、自立した人間、それが集まって来て、何かをする、これが民主主義です。そうは言っても、現実には病を患っている人たちが居ます。或は何かのハンディーを持った人が居ます。心の病、体の病が在ります。例えば久山療育園には、重症心身障碍者の方々が居られます。身体と心に重い障碍を持った方々です。この様な方々は自分で好きな事を話す事も出来ませんし、自分で何処かへ行く事も出来ません。車椅子に乗ってもバランスを取る事が出来ないので、倒れてしまうのです。飲み込む事が難しい人の為に食事も工夫されているそうです。その様に人のお世話にならなければ生きていく事が出来ない方々が居られるわけです。この方々も命ある方として大事な、貴重な命だと考えなければなりません。世話をしている人たちが上で、世話になっている人たちは下というのではなくて、お世話をする事が出来る賜物を頂いているわけです。健康とか知能とか、お世話をする賜物を頂いていると考えて良いと思います。

 

 

 

 別な言い方をしますと、お世話をする人々も他の人たちのお世話になっているのです。またイエスのお世話になっているのです。自分では気が付かないけれど、イエスが世話して下さっているのだと思います。何かの拍子に体がパッと動いて助かる事がありますが、「アーメン 感謝!」と言う時が在ります。自分が自覚するしないに関わらず、何処かでイエスのお世話になっていないでしょうか。お世話をする人もお世話になっているという気持ちが必要なのではないでしょうか。それがお互いへの感謝し、お互いに心を開く事が在るのではないでしょうか。お世話になっている人も感謝するのですが、お世話をしている人も、主なるイエスに感謝する人でなければなりません。そうでなければ、思い上がったり、いろんな福祉施設で傷害事件や殺人事件とか起こる事になっています。「俺がしてやっている」という思い上がりでは、「共に」という事は在り得ません。教会の中でもお互いに支え合う必要がありますが、それを今朝は、お互いを愛するとか、大切にする、大事にするという言葉を、「お互いに感謝する」という言葉に置き換えて見てはどうでしょうかと申し上げたいのです。

 

 

 お互いに感謝する人の集まりが、会衆主義ではないでしょうか。皆が平等だと言い方も出来ますが、今朝は「お互いに感謝する」事だと申し上げたい。「お早うございます」と挨拶する時に、感謝の気持ちを持ったりする事も在るでしょう。特にそんな事が無くても、お互いに祈り合っているという事に感謝する事もあるでしょう。実は、そこに居られるイエス・キリストが見えて来ないと、実際にお互いに感謝する事が出来ないかもしれません。私たちと共に居て下さるイエス、体を患っているこの方にも共に居て下さるイエス、そのイエスを拝するという気持ちでの、相手への感謝、なのではないでしょうか。その様にいま、受けています。バプテストの万人祭司、昔、或る教会では、誰でも説教できるという事も在りました。さすがに他のプロテスタントの教会から批判されて、説教する人に何かの基準を設けたりしていますが、元々は皆が同じだという信仰、イエスから皆が恵みを受けているのは同じだという信仰だと思います。それと同じで、この小さな群れの運営を、皆で、つまり会衆主義でする事を、「民主的な教会運営をする」と信仰告白に書いています。この様な事がバプテスト主義の特徴です。「聖書主義」を先ず挙げています。これをこの次に取り上げたいと思っています。或は「幼児洗礼」を拒否して、信仰告白の後の洗礼もその一つです。今朝は、お互いにお世話になっている事に感謝する群れとしての会衆主義を考えました。同時に、否、先ず、主イエス・キリストのお世話になっている事に感謝する群れで在ります。主イエス・キリスト アーメン 感謝!