「深い闇に沈んで」          2021年2月7日

   ルカ18:35~43     招きの詞 5:24b~34

 

 皆さま、お早うございます。今朝は盲人が癒される話を致します。光が感じられないのですから、心も暗くなっているんではないかと思われます。この方は生まれた時から見えないのか、よく分かりませんが、この記事の書き方では、最初から見えないのでしょう。全く光が無いこの人にとって、喜びとか希望は何だったのでしょうか。多くの人に相手にされない寂しい思いも随分したのではないかと思います。。「見えるようになりたい」、この気持ちは、非常に切実で、見える者には分かり難い事です。医学的には、今、iPS細胞から、見えるようになる努力がなされています。早くそうなって欲しいと思いますが、ドクターたちの努力に感謝しつつ、お願いするしか在りません。同時に、耳が聞こえない方々も居られます。今は手話通訳がいろんな所で、例えば、テレビでも見られます。ニュースなどで、誰かが話す時に、横で通訳がなされていますね。また、テレビでは、ニュースなど、話している内容を、画面下の方に、文字で示されています。外国のニュース番組でもそうです。目が見えず、耳が聞こえないと、話すことに影響するのです。難聴の方は、言葉上手く話せない方多い様です。

 

 見えない、聞こえない、話せないの三つの障碍を持つ方も居られます。昔の話になりますが、ヘレン・ケラーは、この三重の障碍に苦しみ、それを克服した方として、有名ですし、尊敬も致します。相当な努力をされたでしょう。彼女の言葉に、「すべての感覚の中で、視覚が一番喜ばしいものだと思います」という言葉があります。やはり、生きる上で、嬉しい事、喜ばしい事は大事だと思います。私たちの周りにも、様々な障碍を持つ方々が居られます。いま私たちは、その方々の苦しみを少しでも、理解する、分かる努力をすべきではないでしょうか。医者は、見える様になるための努力をされています。私たちは、様々な障碍を持つ方々の事を理解する努力が必要です。私たちには癒すことは出来ません。無理な話です。理が無い話です。してはいけません。これが心の患いの場合に、時々、素人が、これを治そうとする事が在ります。心の問題を簡単に考えて終いがちです。偽医者まがいの人が多くいます。その意味では、教会で説教をする牧師にもその傾向が少し在ります。でも、私が、心の病の方を治そうとする事は、慎まなければなりません。でも、深い悲しみや苦しみを患っている方々を、理解する、分かる努力は必要だと思います。様々な苦しみが在ります。身体の病、心の、感情の、知能の、その他の病など、様々です。久山療育園の子供達の事も思います。苦しいという感情は、無い場合も在るかも知れませんが、やはり、歩けない、話せないなどの事は分かっておられると思います。

 

 今こそ、その方々の事を分かろうとする覚悟が、私たちに必要なのではないでしょうか。その覚悟は、その様な障碍を持つ人々に、「寄り添う」事でも在ります。祈って生きる事でも在ります。この様に言う事は簡単ですが、実際は、寄り添うなんて、中々出来ません。だから、イエスの場合には「どんな事だったのか、教えて頂きたいと思って、この箇所を選びました。その姿勢を弟子たちに教えられました。この場面では、イエスたちが通り過ぎる気配に、この目が見えない人が、何事ですかと尋ねて、イエスだと分かると、「ダビデの子、イエスよ、助けて下さい」と大声で叫びます。すると、先に行く人々、多分弟子たちがこれを叱ります。それをイエスは、それはいけないと、この人を来させます。同じような事は、ルカの15章では、子供たちを祝福してもらうために親たちが連れて来ますが、ここでも弟子たちが、邪魔だと叱る訳です。そしたらイエスは。それはいけない、傍に来させなさいと言います。弟子たちはイエスを煩わせていけないと、拒むのです。教会の姿勢にも、或は私の姿勢にも似たような事が在ると思います。

 

 招きの詞は、マルコですが、長年、出血に悩む女性が、イエスの衣に触れば治ると信じて、触ります。するとたちまち病が治ります。そしてらイエスが、「誰が触ったのか」と見回します。弟子たちは、大勢の人が押し迫っているのに、その人を探すのかと反抗します。しかしイエスはそれが大事だと思っているのです。つまり、自分の衣に誰かが触れて病が治れば良い、ではないのです。「誰が、病気が治ったのか」と、その個人を知りたいのです。誰が癒されたのか、その人にイエスは無関心ではないのです。誰でも良い、ではないのです。そしてその人に、「あなたの信仰があなたを救ったのだよ。良かったね。もうこの病気に罹らないで、元気に過ごしなさい、と言葉を掛けられるのです。病気が治れば誰でも良い、ではなくて、その人が病気が治って、元気に過ごすようにと、そこまで、この人に寄り添う、この人と一緒、イエスはそこまで想いやって居られる事を、ここから私は学びます。

 

 私が祈る時、「いま、経済的に困っている人々をお助け下さい」とか、「いま、心を患っている人をお助け下さい」とか、弱く小さくされている人々を、どこかひとまとめにしているような祈りをしているのです。これでは、「寄り添う」ではありません。あの人が、この人が、この様中で苦しんでいます。それが癒されます様に、と個別な方々の事に私たちが、心を使っているかです。世間一般の人々のために祈る事では決して在りません。一人の人への集中が必要なのではないでしょうか。一人の人の苦しみや悩みが分かる事、これが大事だと思います。「分かる」という英語をご存知だと思います。Understand,、「アンダー」は「下」、「スタンド」は「立つ」、つまり、「下に立つ」事なのです。この言葉が私たちに「分かる」事の姿勢、心を表していると思われます。イエスは他の所で「仕える人」になりなさいと教えました。人々の下に立ちなさいと言いました。イエス自身が「私は仕えるために来た」と言いました。イエスを主と信じる私たちも、同じ気持ちを持たなければなりません。でも多くの人々に仕える事は、出来ません。先ず、イエスに仕える事でしょう。その「イエスに仕える」事は、私が頭の中に思い描くイエスではなくて、障碍が在る、あの人、この人に、仕える事を通して、イエスに仕えるのです。その人の下に立つ、その人を受ける事によって、イエスの下に立つのです。具体的な「あの人」の下に立って、その人の苦しみが分かる、その事を通して、イエスの下に立つ、イエスに仕えるのではないでしょうか。

 

 

 最後にその事を、もう一つの言葉にさせて頂きたい。無理に下に立つのではなくて、一体、何がそこで出来事なるのか、私が下に立つ事は、その人を通して、「命の喜び」を受ける事なのです。先程、ヘレン・ケラーは、「すべての感覚の中で、視覚が一番喜ばしいものだと思います」と言いました。喜ばしい、delight という言葉が、私たちの心の琴線に触れないでしょうか。私たちも、人々に仕え、イエスに仕えて、「喜びを頂く」のです。そして「共に喜ぶ」世界がそこに拓け、「寄り添える」のです。主イエスが「アーメン」と言いつつ、私たちと共に喜びを頂いて下さいます。