「立ち上がって、あゆみなさい」     2019年2月17日       

 

ルカ17:11~19     招きの詞ヨハネ5:1~9

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今朝もご自宅を出られて礼拝に集って下さった事をお一人お一人に感謝申し上げます。先週、リハビリを兼ねて北九州市立美術館に行って来ました。今日までルオー展が在っていたからです。バスで行って少々疲れましたが、ルオーをこれまで絵葉書などで見て来ました。フランス人でカトリックの方です。これまでとはかなり違う印象を持ちました。こんなに暗かったのかという気持ちです。銅版画でキリストの十字架に関する作品(ミセレーレ)が今回は中心の展示でしたが実に色も印象が暗いのです。それが58枚も展示されていました。本当にこんなに暗いのかと思ってしまいました。青野先生は「十字架に架けられ給ひしままなるキリスト」と言われますが、カトリックもそうなのです。ルオーが十字架のキリスト像を毎日拝んでいたそうですが、この像もやはり暗いのです。キリストの十字架とその姿が明るい筈は在りませんが、単に悲壮なのでしょうか。私たちの罪を赦すための十字架とすれば、暗くなるのでしょうか。救われるとは暗いばかりなのかと思わされました。

 

 

 

 そこで今朝は重い皮膚病の人十人が救われた話を選びました。この人たちはサマリアの人たちです。ガリラヤも異邦人の地と呼ばれていましたが、この地は更に「外国」扱いがされています。これはユダヤ人なら救われるけど、外国人は駄目だと言うのではないという事なのでしょうか。重い皮膚病は本田神父ははっきり「ライ病」と訳しています。これは想われるほど感染力はないのですが、当時はそう信じられていたでしょう。社会から疎外されていました。外に放り出されていました。もう一つの理由は、こんな重い病に罹るのは「罪を犯したから」と当時は思われていました。一般の人は罪人と交わってはいけなかったのです。Good News Bibleは罪人を「放り出された人々」outcastと訳しています。社会に戻るには祭司たちに体を見せて、病気が治った事を確認してもらっていたのです。祭司の所へ行く途中で皆が清くされました。十人全部です。最初にイエスに出会った時に、「私たちを憐れんで下さい」と言ったからかもしれません。十人全員をイエスは清くされましたが、その条件を何も言っておられません。ただ「憐れんで下さい」という言葉に応じられた様に見えます。

 

 

 

 その内の一人、サマリア人、外国人だけがイエスの所に戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝しました。祭司たちの所へ行く前か後なのかは分かりません。イエスは「他の九人はどうしたのか。癒されたのは十人だったのではないか」と問われます。しかしその九人を責めるような事は書かれていません。「どうしたのか」と尋ねられただけです。感謝に来た人に「あなたの信仰があなたを救った」と言われますが、後の九人も清くされているのです。その意味で「救い」とは何かと思わざるを得ません。清くされたのは十人で、救われたのは一人だったのでしょうか。清くされる事と救われる事は別なのか。後の九人は救われていないようにも受け取れます。信仰による救いと言いますが、救いとは何なのでしょうか。一寸考えて見ました。救いとは永遠の命へと救われると言いますが、ここではもっと素朴と言いますか、「イエスに声を掛けられて励まされる事」がここでは救いとして言われている様に思います。「立ち上がって、行きなさい」と励ましの言葉を掛けています。後の九人にはこの言葉を掛けていません。この一人には「あなたの信仰があなたを救ったのだ。さあ、立ち上がって、行きなさい」と励ます事、これが何か救いと関係が在るのかと思います。

 

 

 

 「立ち上がって」と言われます。そう訳して在るのですが、「立ち上がって」と聞きますと、その癒された人は足が悪かったのかなとも思ってしまいます。皮膚病の人でしたので、立って歩く事は出来たのです。ですから祭司の所へ歩いて行ったのです。歩ける人々だったのです。本田神父は「勇気を出して」と訳しています。こちらの方がこの場面に相応しいと思います。如何でしょうか。この皮膚病の人は社会から疎外されていましたので、社会に対して怖い感覚が在ったでしょう。中々受け入れてもらえなかったのです。そんな人ですから「勇気を出して」と言われる方が、心に響くように思います。私たちは聖書を読みますが、少し疑問を持ったり、もっと受け取り方が変えられないのかと、私たち読む側で真剣に考えるべきだと思います。その意味ではやはり、学びが必要だと思われます。ですから神学を必要としますし、共に学ぶ事が必要です。この単語は確かに「立ち上がる」という意味が在ります。同時にこの単語には、元に戻る、復活するという意味も在ります。

 

 

 

 この人はこれまで社会から疎外されて、死んでいたのも同然だったと考えれば、社会復帰に「君は甦ったのだから」と言えますし、「元の体に戻ったのだ」とも言えます。「体が清くなったのだから、もう皆と一緒だよ。だから勇気を出してみんなの中に入って行きなさいよ」と読めないかなと思っています。「立ち上がって、行きなさい」という訳と比べて、やっぱりイエスが優しく一人のライ病人だった人に語る言葉として、もう少し思いやりのある言葉に出来ないかと思います。「勇気を出して行きなさい。あなたが信頼をもって歩みを起こしたことがあなたを救ったのだ」という本田神父の訳には思いやり、優しさが感じられますね。ここでいう「あなたの信仰」とは、戻って来て神に感謝する心を持っている事、とも取れると思います。その心の故に、イエスに「さあ、前に向かって勇気を出して歩み出しなさい」と励まされる出来事の中で、「私が一緒だから」と付け加えたいです。そこにイエスご自身の決意が感じられる訳にしたいです。常に弱い人々に係わって下さっています。

 

 

 

 この様に励まされ勇気づけられる、「前に向かって歩み出して良いのだよ。私も一緒だから」と励ましを受ける事、これを「救われる事」と今朝、受け止めたい。先ずは神に感謝する心をイエスが見て下さった、受けて下さったという大事な一点が在ります。信仰が大事という前に、イエスが「さあ、もう元の体に戻ったのだから、しっかり前を向いて歩きだしなさい。私も一緒だから」と、ご自分の決断も込めての励ましが、イエスの救いの一番大事なポイントではないでしょうか。清められた後の九人が居ますが、その人たちも一緒に救われるとは、ここでは思えません。イエスの下に戻って来て感謝したこの一人に対して、励ましの言葉を掛けられた事、これもまた大事な事だと思えます。何かしら「救い」とは死からの救い、罪からの救い、そして永遠の命として語られるのですが、そこへ向かう第一歩として、「あなたは元に戻ったのだから、勇気を出して前に向かって歩みなさい。私も一緒だから」との励ましを受ける事も「救い」だと信じます。イエス・キリストの力強い励ましが私たちを前向きに生かして下さいます。 イエス・キリスト アーメン