「主よ、どうかお助け下さい」   2018年6月3日

 

  マタイ15:21~28   招きの詞ルカ18:9~14

 

 

 

 皆様、お早うございます。もう6月でいつもより早い梅雨入りだそうですね。どんどん時が過ぎて行きます。皆さま、体調は如何でしょうか。今朝は坂本姉と田中聞多兄が少し体調を崩されてお休みです。どうぞお祈りに覚えて下さい。私たちは小さな力も無い者で、徴税人の様に、天に向かって顔も上げる事が出来なくて、「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と祈る。或はカナンの女の言葉の様に「どうか、お助け下さい」と祈るしかないのだと思います。今日は、神を信じてその様に祈りましょう、という事で今朝の説教は終わります。と申せば、皆さんに「そんな事、言われなくてもやっています」と怒られそうです。それで「困ったなあ」と思っています。「主よ、どうかお助け下さい」という言葉をどの様に深めて行ったら良いのか、中々難しいですね。皆さんからは、あれこれ言わなくて素直にこの通りにしたら良いのだと言われそうです。

 

それを信じたいのですが、キリスト教だけでなくこの世界の歴史を見た時にどれ程多くの人たちが、「キリスト教を捨てなければ殺す!」という場面が長く続きました。その人は必死の思いで「どうかお助け下さい」と祈らなかったでしょうか。必ず祈ると思います。私だったら「どうかお助け下さい」と必死に祈ります。でも、その祈りは聞かれなかった事が多かったのではないでしょうか。どれ位の数の人々が「助けÞ下さい」と必死に祈って、応えて貰えなかったのでしょうか。数えられません。でも聖書の教えは、信じて祈れ、という事の様です。他の宗教も似たような事を言っています。例えば、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば浄土に行ける、親鸞聖人の教えとよく言われます。「他力本願」とも言いますね。阿弥陀様の力で浄土に上げて頂くのだ。私たちもイエスの力で天国に引き上げて頂くのだと言います。その辺りがよく似ていると言われます。例えば、この本「聖書と歎異抄」という本田神父と五木寛之の対話の本が在ります。イエスの教えと親鸞、或は法然の教えはよく似ていると言われます。仏教の事を簡単には申せないので、それは置いておくとしまして、イエス・キリストに必死にお願いする、この事で何か問題が在るのか、もうその様に祈るしかないのだと言われそうです。でもどれ程真剣に、信じて疑わない、という気持ちで何億人の人々が祈ったでしょうか。でも聞かれなかった人がたくさんいました。では「主よ、どうかお助けください」と祈る事は本当ではないのだとか、これは自分のための祈りだ、だから聞かれない事も在るのだというのかも知れません。カナンの女性の場合は娘のためです。食卓からこぼれたものでも結構ですから、娘を何とか助けて下さいと願います。他にも自分の息子が悪霊に取りつかれている父親は息子のために願います。勿論、聖書には自分にために願う話も沢山あります。しかし、私たちは誰のために願い祈ったら良いのか、考えざるを得ません。家族にためには当然祈ります。それから友人のために、或は自然災害、東日本大震災、熊本地震、朝倉地区の大水害などの被害者の方々の為に祈ります。誰のために祈るのかは、此処までで良いという範囲は有りません。

 

さらに自分が意識しない世界で弱く小さくされている人々がいます。先週木曜日に部キ連の研修会が有りました。キリスト者が部落差別の問題を取り上げています。今回は東京品川教会の会員で片桐先生が講師でした。もう60を越えて居られ、小学校の先生だった方です。普通の小学校の先生でしたが、そのクラスに障害の有る生徒が一人、何かの機会に紛れ込んで来て、とうとう居付いてしまった事から障碍の在る子と健常者の子供たちが一緒に学ぶ事が良いのだと思われるようになられたのです。ご自分はその子が何を言っているか聞き取れない、でも子供たちはそれを聞き取って先生に伝える。もう一度聴くと成る程、そう言っている事が分かる。子供たちが教えてくれる。この子も数字は5位しか分からなかったし漢字も読めなかったのですが、子供たちとの共同生活で少しずつ覚える様になった。そんな中で「心をいつも研ぎ澄ませていたい」と思われ、この小さなブックに書かれています。普通は私たちがあまり意識しない差別とか、あの人たちは・・・だと思ってしまう事は沢山あります。

 

そんな中で部落問題だけでなくて、目につかない人たちの事も覚えながら祈らなければなりません。この片桐先生は今も講師として小学校の障碍のある生徒のために働いて居られます。人権の取り組みが一番遅いのは何処だと思うかと問われました。何処だと思われますか。学校だと言われるのです。普通の道路に点字ブロックがありますが、学校にはない。殆どの駅にエレベーターが有りますが、学校にはない。有っても生徒は使えない。学校が一番差別解消の努力がされてないのではないかと言われます。片桐先生の結論は、関係を作る事が一番大事だと言われます。教育は関係を作る事、決して出来ない子が出来るようになることではない。健常者の子たちと障害の有る子とのつながりが出来て広がる事が教育だと言われます。差別も関係の中で生まれる、障碍の在る人を不幸とか劣っていると決めつけてしまう、そこが問題なのです。子供同士、或は先生と関係が出来る事が教育だと言われます。

 

それでふっと思い出したのは猪城先生の言葉です。大学に行く目的は自分の先生(師)と友人に出会う事だと言われました。「師友」という言葉を教わりました。片桐先生から関係が出来る事の大事さを今回教えられました。私たちの本当の先生はイエス・キリストです。イエス・キリストは「あなたの隣人を自分自身の様に愛しなさい」とか「あなたの敵を愛しなさい」とも教えられました。「あなた方は互いに愛し合いなさい」と教えて、関係を一番大事な掟だと教えられました。このイエス・キリストを私たちは主と仰いでいます。ですから私たちは自分の事とか愛する人の事しか思わないのは、主の教えを分かっていないのです。「主よ、お助け下さい」といろんな人たちの事を覚えて祈る事が大事です。ところが私たちは小さな人間です。弱く小さくされている人々の為に祈るのですが、それは私が捉え理解したその人のために祈るのです。ですからその方自身の本当の苦しみ悩みまで届かない、壁が在る。こちらが作り、向こうも作る。そこが一番問題ではないでしょうか。災害の被害者の方々の為に祈りますが、私が理解した苦しみの為です。ご本人の本当の苦しみを分かる事は中々難しい。壁を越える事が出来ない。その時にこそ、「主よ、どうぞお助け下さい」と祈るのではないでしょうか。私の目線を越えられません。この問題を意識された方は沢山居られると思います。そこが主イエスご自身が「主よ、どうぞお助け下さい」と十字架の上で祈られた、その中身だと思います。私たちが祈る時、主イエスご自身が「主よ。どうかお助け下さい」と、祈る相手の方と私とを執り成しして祈っていて下さいます。 イエス・キリスト アーメン 感謝