「平和の道具 Ⅱ 痛み」     2018年9月2日    

 

    マタイ8:1~4     招きの詞マタイ5:4

 

 皆さま、お早うございます。よくお出で下さいました。9月になって、やっぱり太陽の光の強さが少し弱くなった感じがしますね。秋が近づいたなと言う気持ちにもなりますが、今日9月2日は何の日かご存知でしょうか。平和に関わる事ですが、実は1945年9月2日に、日本とアメリカは正式に休戦協定を結んだのです。例の戦艦ミズーリの上で、重光外相が正装でしたが、勝者のマッカーサーはノーネクタイで普段のシャツ姿でしたね。国際的に、また法的には今日9月2日が敗戦の日です。そんな日に平和を祈る礼拝をします。今日は平和を創り出す道具を「痛み」とさせて頂きました。アメリカが言う太平洋戦争では殆どの人が凄い痛みを受けました。痛みの中に叩き込まれました。今は表面上は平和の様ですが、虐待が続いて居たり、子供の貧困が続いています。幼気な子供たちが厳しい状況に生きています。この様な状況を私たちはどの様に受け止めるべきでしょうか。子供たちの痛みを代わって担う事は出来ません。その痛みを受ける事は出来ません。

 

 

でもその痛みの中に居る人々を私達が覚える、知る事が必要なのだと思います。英語で「知る」といのはknowが有りますが、しかしknowは「分かる」という事でも有ります。I don’t know. は「分かりません」にも使います。ですから痛みの只中に居る子供たちや人々の事を覚えて、どうしたら良いだろうかと考えますが、そういう痛みを小さな事であっても、先ず「知ろう」とする事が大事ではないでしょうか。「分かろう」とする事ではないかと思います。聖書にも有ります様に、「異邦人の間では、権力を持つものが、その権力を振るっています。」今も自分の国の平和と繁栄のために、という事が中心に動いていると思います。Pax Americana, Pax Russiana でしょうか、Pax China でしょうか。しかし、小さな所でも、例えばこの前原市でも議員や力の在る人々が夫々、権力を振るって甘い汁を吸っている様な事もあります。誰かが私有化すれば、弱い人々に痛みを与える事にもなります。小さな声を聞こうとしないから聞こえない、分からないのでしょう。

 

 

イエスはガリラヤを訪ねて、極貧の人々(プトーコイ)の為に、或は悲しんでいる人々の為に、或は義の為に迫害されている人々の為に、励ましの祝福を送って、力付け、励ましの言葉を掛けられました。それでもその状況は変わらないとも思います。皆さまはご存知と思いますが、沖縄に金城実という彫刻家がいます。DVDがありますので、お貸しできます。これは梶原兄がダビングして下さったものですが、沖縄の悲劇を具象化しておられます。彫刻は、私もやっと気がついたのですが、ノミで彫って行くわけですが、最初は木の塊を果てしなく彫り続けなければいけません。何千回、何万回と打ち続けて、やっと形が出来て行きます。その様に少しずつノミを打ち続けていく、それが平和が実現していく様な事でもあると思わされます。悲劇の姿をたくさん作品にしておられて、この頃は修学旅行生も来る事があるようです。

 

 

金城氏は沖縄の小さな島、電気も無いような島から、大学を志して、何回か失敗の後、入学されて、大阪で中学の英語の先生をしておられました。その時に大阪の在日韓国の人々と出会って、苦労した母親オモニの姿の像を作られました。お母さん方と一緒になって作られたのです。出来上がった時に、お母さん方はチマチョゴリで正装して歌い踊り、一緒になって泣かれたそうです。在日の方々の痛みを知られたのです。分かられたのです。それから沖縄に戻って沖縄の痛みを彫って行かれたのです。チリチリガマという洞窟で、沖縄戦で大きな犠牲が払われた洞窟に、ずら~っと戦争の悲劇を彫って居られます。死んでいる赤ん坊を抱いている母親、子供を守るために鍋をかぶせている母親とかの姿もあります。こんな悲劇を受けた沖縄は現在も悲劇の中に在るとしか言えません。本当に弱い者たちが犠牲者になる、そんな歴史ですが、金城さんは「泣くな!」と訴えられます。そして下駄を手に持って、下駄踊りをされます。エーサイですか、それに似ていながら武術、下駄で自分を守る、そんな踊りをしながら、「泣くな!戦え!」と言われます。「負けてたまるか!」という気持ちでしょう。そんな気概を私たちも持ちたいと思いますが、中々「負けてたまるか!」とはなりません。口では言えますけど、難しいです。 

 

イエスも弱い人々の痛みを自分の痛みとして担って下さいました。私たちが生きている時の痛みを全部受けて下さった。ですから或る意味では、常識からすれば、そんな事は有り得ないので、偽者扱いされた、それは当然の事だったでしょう。そんな人は居ませんから、偽者に決まっとる、そんな奴は消えろ!と抹殺されました。私はそんな時に、イエスが逃げられなかった、金城さんの「負けてたまるか!」ではありませんが、痛みの只中に有って「逃げてたまるか!」と戦われた、こんな言葉を使う事が良いのか分かりませんが、でもイエスは「真っ直ぐに」人の痛みを受けて下さいました。「真っ直ぐに」神の子の力を貫いて下さった、と私は思います。この頃、神の力は弱さの中に現される、逆説の力だとよく言われていますが、私は、イエスが逃げないで真っ直ぐに人々の痛みを受け続けて下さった、この真っ直ぐな姿、これが神の強さ、力だと私は思います。イエスが受けられた最も大きな痛みは何か、と言えば、「神に捨てられているという痛み」、自然災害の中で思われた方々も多いでしょう。この「神に捨てられた思い」これこそ「最も大きな痛み」、これをイエスが担って、この言葉を神に向かって「どうして、私を見捨てたのか!?」と叫ばれました。

 

しかし、だからこそ、神は其処で終わりにされなかった。この叫びが終わりではない、とイエスを復活させられました。「負けてはいない!」という事でしょうか。でもイエスは完全に死んだのです。途中で、戻って来て、復活したのではありません。全く死んでしまった。全く抹殺されたしまった。でも其処から神は「復活」という道を創り出されました。その力が私たちに希望を与えてくれるのではないでしょうか。「痛みを越えて下さった」と言えると思います。このイエスの復活にこそ、全ての人々の痛みを越えて、平和が実現する希望は在る、と信じます。私たちの痛みを担って下さったイエスを「平和の主」として信頼していく、その道を私たちに拓いて示して下さる、イエスが平和の主であるとの信頼の中に、お互いに支え合いながら、そこに向かって、共に歩んで行こう、そこにこの小さな交わりの意味が在ると信じます。励まし合いながら、支え合いながら、何とか平和への希望を持ち続けよう、というこの場をイエスから与えられていると、信じますし、皆さんと共に、この道を歩ませて頂きたいと願っています。

 

平和の主、イエス・キリスト アーメン