「死の暗闇に光を指すイエス」    召天者記念礼拝

                                  2019年9月29日 

 

マルコ15:33~39   招きの詞 マタイ4:12~17

 

  皆さま、お早うございます。本当に久しぶりの方々、この小さな群れを覚えて居て下さり、心から感謝申し上げます。今朝は先に天に召された方々を覚えて、生きておられた間、そして今も私たちを支えて居て下さる事に感謝したいと思います。

 

  今朝は週報に掲載している方々を覚えての召天者記念礼拝です。〔お名前を省略〕この方々には大変お世話になりましたし、今も私たちの心の中に生きているという事だけでなく、今私たちが生きているのはこの方々のお働きのおかげです。今も又つながっていると信じます。ただ、この方々は必ずしも祝福された人生を送られたわけではないと思います。病に倒れたり不条理な生き方をせざるを得なかった方々も居られます。本当に大変だったでしょう。その様に不条理な人生、不条理な死を迎えられた方々への最大の慰めは、神の子イエスも不条理な死を迎えられたという事です。それが「エロイ エロイ レマ サバクタニ」の言葉だと思います。それをローマの百人隊長が「本当にこの方は神の子であった」とマルコは証言させています。マルコはイエスの生涯を描くのにたくさんの資料を探したでしょう。その時このイエスの言葉を見つけて、飛び上がるほど驚いたと想像します。イエスがこんな事を大声で叫ばれたと知って、或はそれが福音書を書く動機だったかもしれません。福音書は今までに無かった形式です。

 

  このマルコ福音書が元になって、それをベースに別のイエスの言葉を見つけて書いたのが、マタイとルカ福音書です。それとは殆ど別の資料によってヨハネ福音書を書いたのが私たちに残されています。私はマルコ福音書の中で、イエスが叫ばれたこの言葉が最大のポイントだと思っています。でも、多くの神学者、牧師、司祭たちはこの言葉を殆ど取り上げていません。ですが、私はこの言葉こそ、マルコが福音書を書く動機になった言葉だと信じています。普通には考えられない言葉を死の瞬間に叫ばれたのです。「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。それを神の子として叫んだのだとマルコは描いています。百人隊長がそれを証言しているのです。普通には考えられない言葉を死の間際に、ご自身の父に向かって「どうして私を見捨てたのか」と叫ばれたとマルコは書き残しています。

 

  ご自身が殺されて三日目に甦ることは、生前から予言して居られました。ですから、十字架に架けられる事が、神に見捨てられた事とは思えません。生前のガリラヤなど弱く小さくされた人々の所へ出かけて父なる神のみ心を伝えた働きが、神殿宗教者や律法学者たちに咎められて遂に殺されるという、正しく不条理な死であったと思います。その不条理さを神に向かって叫ばれた。私はこれは神に対する「問い掛け、質問」でもあると思います。問い掛けられた神は放っておくわけにもいかなくなって、黙っているわけにもいかなくなった。それに応えて下さった、それがイエスの復活です。イエスを蘇らせることで、お応えになった。そしてこの言葉が、この世の全ての不条理な生き方や死を迎えた方々に対する、本当の慰めの言葉だと思います。

 

  私たち生きている者にとっても、この言葉は、私たちの不条理な人生を意識する瞬間にも、イエスが私たちと共に叫んで居て下さる言葉だと思います。私たちが生きている中で、病気になったり、事件が起こって、「どうしてなのですか?」と思わざるを得ない生き方を強いられて居る時に、「神様、どうしてなのですか?!」と叫ぶその時に、イエスも一緒にその言葉を叫んで居て下さる。そしてそのイエスの叫びに対して、神は応えられました。命を以って応えられました。この事がイエスから受ける、最も大きな慰めだと思います。災害に遭い、事件に巻き込まれ被害者となった、治療もままならぬ病気に罹る、そんな中で生きざるを得ない時に、「神様、どうしてですか」と叫ぶことが許されているのです。というよりも、叫んで良いのです。その時、イエスも一緒に叫んで居られるのです。割れる様な大声で叫んでいて下さいます。

 

  それが、神の眼差しが私たちに向けられている証拠です。私たちにいつも心を向けて下さる事の証拠、それがこの出来事だと信じています。お名前を出して申し訳ありませんが、○○さんの、お母様は病に倒れられました。お母様も「どうしてですか」と叫びたいお気持ちだったと思います。それを私たちも叫んで良いのです。その時、割れる様な大声で、「神様、どうしてですか!」と、私たちの声が搔き消される様な大声で、イエスも共に叫んで居て下さる。その響きを私たちは聞きたいと願っています。先に天に召された方々を覚えながら、或は、生きている方々の苦しみを覚えながら、「どうしてですか」と心に思った瞬間に、イエスが割れる様な大声で叫んでいて下さいます。今朝はそのイエスの叫びの響きを受けて頂きたい。

 

  「神様、どうしてですか」と叫ぶことは、不信仰の表れではありません。神の子イエスが、私たちの小さな叫び声を受けて、時に大きな、そして狂おしい様な叫びを受けて、果てしない叫びでしょうか、その叫びを、私たちと一緒に叫んで居て下さる。その意味で、私たちのこの不条理な生き方は、孤独ではありません。私一人だけがこの苦しみを味わっているのではない。私の事を分かって下さる方が、私たちの傍に来て下さるのです。先週の遠藤周作の「沈黙」で、ロドリゴが足の激しい痛みに襲われた時に、「あなたの痛みは私が一番、分かるよ」と語って下さるという場面が描かれています。

 

  今朝、私たちが「どうしてですか、なぜ、私はこの様な人生を送らなければならないのですか。どうしてこの方々はこの様な生き方をせざるを得なかったのですか。あの様な死を向かえなければならなかったのですか」と叫ぶときに、私の声の何倍も上回る声で、イエスが叫んで居て下さる。あなたの叫びは私の叫びだと言っていて下さる。私たちがどんな所に追い込まれても、私たちは決して、孤独ではありません。悲しいと思った瞬間に、「その悲しみは私が一番判るよ」と言って下さるイエスの姿を、この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ 我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という、言葉の中に受けています。イエスご自身の叫び声を受けながら、私たちが生き貫くように!と励まされています。また、お互いに覚えて、この叫び声を共に受けなさいと、この小さなのぞみの群れがその様に用いられている事を、感謝致します。主イエス・キリスト アーメン