「サタンに縛られて」     2019年2月24日       

 

ルカ13:10~17     招きの詞創世記1:1~5

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今朝は知子姉妹が初めて礼拝の司会をして下さいます。心から感謝申し上げます。先週紹介した本田神父の「勇気を出して歩み出しなさい」という言葉をそのままに歩み出して下さったと思います。今朝で2月の礼拝も終わります。早いなあ!という気がしますが、今朝は「サタンに縛られて」という題ですが、今の時代にサタンの存在を信じる方は多くはないと思います。皆さまは如何でしょうか。イエスの陰にサタンが居ると思われますか。しかしこの頃、悲劇と言いますか、何故なのかと理解に苦しむ様な出来事が多すぎますね。理由が不明なだけにサタンの働き、サタンの存在を思わなくもありません。聖書ではヨブが一番サタンに縛られて苦しんでいると思います。ヨブは理由も前触れもなく、家畜や家族を失い、次には自分自身の体が凄い事になって苦しみます。苦しむという言葉では言い表せない様にも思われます。聖書もそれをサタンのせいにしているのです。神がサタンを創造されたのかどうか、私たちには分かりません。

 

 

 

そこで創世記の冒頭の天地創造の場面を読んで頂きました。これをその通りであったと信じる方も居られますし、これは神話だと思う人もいます。それでも中々意味深い描写が在りますね。人間存在の前に天地を神が創ったという話です。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」と書き出しています。「地は混沌、深淵の上に闇」という表現は普通の神話にはあまり出て来ないのではないでしょうか。深い淵にはまったく命は在りません。光もまだ無い。死の世界そのものです。その場面で神が「光あれ」と言われます。生命が生まれるのには水や酸素などが要るのでしょうが、私は「光」も大事だと思います。ここから生命が生まれる事になっているのです。北海道の知床半島に私は行ったことがないのですが、冬には川も海も凍ってしまい、厚さ40~50cmにもなるそうです。極寒の風が吹きすさび、生き物を拒絶している世界、全く死の世界の様に見えます。しかし、実はそこで命が始まっているのです。昨日夕方、ちょっとテレビで見たのですが、その分厚い氷の下、裏側で、光合成が始まっているのです。光は氷を通って来て、氷の裏側は流され難いので、そこで光合成が起こり、有機物が生まれて、それをプランクトンが食べ、プランクトンを小魚が食べ、小魚を大きな魚が食べるのです。その食物連鎖の上にシロクマやアザラシ、オットセイなどあの巨体の生物が存在可能なのです。あんな大きな生き物がそこに生きる事が出来る底辺の支えが在る訳です。

 

 

 

その頂点には人間がいるのですが、その人間世界の遥か彼方、遥かに極小の世界が、命の世界が在るのです。見た所は命が無い世界です。日常の常識ではその様にしか見えません。命の世界は遥かに複雑で、極小の世界から始まっているんです。それもそこに光が届いているから始まるのだと今回思いました。ですから神のみ心は決して闇や深い渕ではなくて、「光あれ」と光の世界に変えられた所に在ると思います。なのに何故、人はサタンに縛られてしまうのか。命の世界が遥かに小さい世界から始まる複雑な世界で在る様に、人間の心の世界も、遥かに遠く小さい所から始まる複雑な世界なのでしょうか。そう簡単には人の心の底には届かないのです。この部分では私は知識も在りません。今朝の聖書の個所のポイントは、この女性を解放して下さったイエスのみ心だと思います。この女性は「サタンに縛られて」と受動形で訳してありますが、元の言葉は「サタンがこの女性を縛った」とサタンを主語にしています。とにかく18年もの間、サタンがこの女性を縛っていたのです。この婦人を安息日であるにも拘わらず、一日も早く、今日、解放してやるべきだとイエスは思われたのです。その解放の出来事が起ったのです。

 

 

 

この婦人はイエスに何も頼みませんでした。先週お話した重い皮膚病の十人のサマリア人の場合は、イエスを見て遠くから「憐れんでくれ」と頼みました。イエスがこの婦人に近づいて手を置かれました。この「手」は両手なのです。片手を置いたのとは違うのです。この様な所はもう少し丁寧に訳して欲しいですね。イエスもまた「あなたの信仰があなたを救った」とも言われません。ポイントはイエスと会堂長との論争になります。この婦人は18年もの間サタンに縛られていたのだから安息日でも解放してやるべきではないか、とのイエスの言葉に民衆は喜びます。この物語では、イエスを信じたから救われたという事がどこにも出て来ません。イエスは一方的にこの女性を救われました。イエスは私たちの信仰の深さや大きさを問題にされないで、癒して下さったこの出来事、この出来事を私たちがしっかり受け止める事から、私たちも開かれていく、癒されていくのではないでしょうか。教会は長く「信仰」を問題にして来ました。イエスに対して強い信仰、或は深い信頼を持つ様にと語って来たと思います。「信仰を持ちなさい」と導いて来ました。「強い信仰を持つ様に」と語って来たのですが、そこもまた「縛られた世界」なのではないでしょうか。信仰が無ければ教会に来れないとか、癒して頂けない、しかし、イエスとの出会いに於いてはそれが無くても、真に出会える世界が在ると、この物語りは語っているのではないでしょうか。癒しの出来事が、信仰を問うことなく起っている、と伝えているのではないでしょうか。この事を私はしっかりと受け止めたいと思います。

 

 

 

その意味ではイエスが来て下さるのを「待つ」しかないのです。この場面もイエスが出かけて行かれました。そして両手で祝福して下さる出来事が起ったのです。イエスが来られた、ここから始まります。イエスが来るのを待つしかない、と言いますと本当に頼りないです。しかし私はここに、深~い意味が在る様な気がします。私たちは自分の信仰が足りないのかとか、浅いとか薄いとか、つい思ってしまいます。そういう事では無くて、主イエスは、元々「来られる方」なのです。「神が遣わされた方」なのです。私たちの為に「天から来て下さった方」なのです。私たちが招いたのではありません。「貴方たちに仕える為に私は来たのだ」と言って下さっています。人は待つしかない、何か頼りない感じですが、「主は来て下さる方」なのですから私たちは待てば良いのです。

 

 

 

ドイツに1800年代にブルームハルトという牧師がいました。息子さんも牧師になりました。1800年代半ばに、或る娘さんが悪霊に取りつかれていたのですが、このブルームハルト牧師がその悪霊を追い出す事件が在りました。この時、ブルームハルト牧師は「イエスは勝利者だ!」と叫んだのです。その途端に悪霊が追い出されたのです。それから多くの人々がこのブルームハルト牧師を頼って、訪れます。このブルームハルト牧師は「待つ!」事を強調しました。「待つ、急ぎつつ」と言われたのですが、言葉の矛盾のようにも聞こえます。待つのに急ぐなんて考えられません。「急ぎつつ」とは「主よ、来て下さい」と祈りつつというのでしょうか、来て下さる事を真に心から待つ、と言いますか、「主が働いて下さる、来て下さる」事に全くの信頼を置いて「待つ」のだと思います。これがブルームハルト牧師の「待つ、急ぎつつ」という言葉です。私たちが招くのではありません。一方的に来て下さる。ここに私たちが自分の信仰から解放されるのです。自分の信仰に囚われて、中々そこから解放される事が出来ませんし、この問題は根が深いのですが、その第一歩に「イエスが来て下さる」出来事が起っている、この事を今朝の物語は教えてくれています。「主よ、来たり給え、マラナ・タ」(Ⅰコリント16:22) 来て下さる方 イエス・キリスト アーメン