「苦難と感謝」 

                2019年1月6日       

 

  第二コリント1:3~7   招きの詞ヨハネ6:31~33

 

 

 

 皆さま、明けましておめでとうございます。よく来て下さいました。今年もよろしくお願いします。聖書を読む事に於いて、イエス・キリストからの力を受けながらと申しますか、イエスを抜きにして、聖書の文字だけに囚われるのではなくて、イエスが近づいて下さる中で、聖書を読ませて頂く努力を今年も皆さま方とご一緒に務めて行きたいと願います。皆さまがこの礼拝に来て頂く事が、私にとっては本当に力を頂く源です。そう言いながら、来週からご迷惑をお掛けします。留守の間をよろしくお願いします。

 

 今朝の題は「苦難と感謝」ですが、苦難を新年早々語るのはどうかとも思いましたが、昨年も一昨年も自然災害がたくさん在り、事故、事件も多発して、人命が不本意ながら失われる事に、また今、立ち往生して居られる方々に、どんな言葉を語る事が出来るか、今年一年もその事を念頭に置いて進んで行きたいと思います。経済や政治の格差で、世界中に難民が溢れていますし、テロや戦争の陰で命の危険に晒されている方々に対して、私たちは力が無い、と思いますが、何とか力になりたいという気持ちを失ってはいけないと思いますし、僅かでも努力したいと思います。しかしその時、何とか力にならなければと思って、自分を忘れがちになり、相手の事もまた忘れがちです。やはり相手の事が分かる理解力が大事です。相手の方々の状況は深~い淵の向こう側に在る様にも思え、自分の手が届かない感じもします。相手が深い淵に沈んでいる様にも思えますが、実は自分が深い淵に沈んでいるのかもしれません。しかし、深~い淵は本当に在るのでしょうか。どんな深い淵にも底が在るのではないか。そんな気がします。しかし私の身長が深さを越えられない。簡単に、深い淵にも底が在ると言われても、力が湧きません。

 

 じゃ、どうしたら良いのでしょうか。海で沈みそうになると、沈むまいとして力が入ってしまい、結局沈む事にもなっています。上に浮く為にはそれを支える力、反発力が必要なのです。ですから沈むまいとする力を抜く事と、小学校の頃通った海の水泳学校でよく言われました。浮いたつもりでも頭だけで、足の方は水の中に沈んでいます。足を上げる為には、頭を水の中に反らして突っ込む気持ちが要ります。そんな事も思い出しますが、沈むまいとしてバタバタするのは、私たちが忘れている事が在るのだと思います。いくらバタ狂っても自分が生きているからそうなっているのです。命が在るからこそ、バタバタして沈んでしまう。命が在るよ、神の恵みがここに在るよ、という事への感謝を忘れているのだと思います。パウロの言葉ではありませんが、苦しんでいる方々に慰めを届けようとする時に、すでに命を頂いているではないか、この事への感謝、これを私たちは忘れているのではないでしょうか。

 

 仏教でも感謝が言われます。アメリカでも活躍している或る日本人のお坊さんがこう言われます。昨日は過去、明日は未来、そして「今日」は「こんにち」とも読みますが、「現在」を英語では「プレゼントpresent」と言います。プレゼントは「贈り物」の意味も有ります。だから、「今日」はプレゼント(神からの恵み、贈り物)なのだから、その恵みに対して「感謝、有り難うございます」という気持ちを受けなさいと教えておられます。感謝の気持ちを持って、今を生きなさいと言われます。本当にそうしたいのですが、中々それが実現できないです。なにか、もっと大事な事が抜けているのではないか、とも思われます。現在は「プレゼント」、贈り物だと言われますが、一体誰がプレゼントして下さったのでしょうか。また、何のために、どうして、プレゼントして下さったのでしょうか。私たちは我がままですから、ついその事を忘れてしまいます。それは、私たちの為に、この世に来て下さった神の子の出来事を、私たちは何処か忘れてはいないでしょうか。つまり、クリスマスの出来事です。

 

 むしろ、神の子がこの世に来て下さった事を、当り前と思ってしまって、別に驚いていませんね。え~っ!と驚いていません。神がこの世に来られる事は、普通では考えられない事です。でも、クリスマスではそれが当たり前の事で、メリークリスマスとか言ってお祝いをしますが、それを当然だと思っていないでしょうか。私たちはその恵み

に与って当然だ、そんな気持ちになっているように思われます。ですから、命を頂いている事、恵みを頂いている事、を忘れてしまうのです。当然ではない事を、当然だと思ってしまう、ここに問題が在る、そう思われます。神が苦難の只中に来られるなんて、決して当たり前ではありません。私たちがどんなにバタ狂っても、その事を起こす事は出来ません。逆に、私たちがバタ狂っている様子を見られて、近くに来て下さって、手を差し伸べて下さった出来事への私たちの驚き!これを先ず皆さまに訴えたいです。

  

 神が起こして下さった出来事、私たちの傍に来て下さった、その事に驚き、また喜び、その中に引き込まれて安心する、イエスに依って、私たちがそちら側に引き込まれる、私がバタ狂って深い淵に引き込まれるのではなく、イエスの出来事に驚かされ、す~っと引き込まれてしますのです。イエスの方に、明るさの方に、恵みの方に、力の方に。私たち人間は、自分たちだけが生きている様に思いがちです。そうではなくて、神(の子)が来て下さって、支えて下さって、手を差し伸べて下さるから、浮いている、生きている、その事の驚きに依って、ふっとそちら側に引き込まれるのではないでしょうか。私たちはクリスマスを心からお祝いしたい、でも心からお祝いできない方々が居られる事も心の隅にあります。でも、その事も含めて、イエスにふっと、持って行かれる、引き込まれてしまう、その事がクリスマスの出来事、神の子がこの世に来て下さった出来事なのではないでしょうか。その事に依って、私たちは歩み出す事が出来るし、希望に生きる事が出来るのです。私たちが苦難の只中に落ち込んだ時にも、ふっと、私たちをご自分の側に、ご自分の傍に、引き込んで下さる、その様な神の力、圧倒的な神の力、神の子イエスの力、これを今朝はぜひ、受けて頂きたいと願います。

 

 今朝の讃美歌205「まぶねの中に」を雅子姉が偶然選ばれたのですが、その4節を読んでみましょう。「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は現れたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる生ける神なり」。この事に真に驚く時、私たちをご自分の側に引き込んで下さる出来事を、今年もまた、共に受けて参りたいと願います。

 

 

 (亀井良雄先生が1月の間は、入院されていたので、この後、2月10日までメッセージはありません)