「神の子イエス・キリストのお働きの源」  2018年17

 

マルコ1:1      招きの詞:ヨブ記10:1~8

 

 皆さま、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。皆さまのこの1年が主イエスに祝された1年となりますようにお祈りしたいと思います。今朝は今年最初ですから、最初とか初めとかを探して、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉にしました。そこであれこれ調べて見ましたら段々思いもしない方向になってしまいました。新共同訳は「福音の初め」ですが、印象が違う題になってしまいました。まず「福音」を「イエス・キリストのお働き」と訳しました。福音は皆さまご存知の通り、良い便り、良い手紙の意味ですね。しかし何が良い知らせなのか、その中身を考えますと、イエスが私たちの為に働いて下さるという事ですから、イエス・キリストのお働きと致しました。そして「初め」という言葉ですが、フランシスコ会の聖書では「福音の始まり」と訳されているそうです。ところが岩波書店の聖書では佐藤研先生の訳は、「初め」エルケーには「源」という意味も有るので、「神の子イエス・キリストの福音の源」と訳されています。そこで私もその線で考えて見る事にしました。

 

「源」と言いますと、「どこから」と先ず考えます。それから「イエス・キリストのお働きの源」と言う場合はイエスの力、活力の源と捉える事も出来ます。「何故、そんなお働きをなさるのか」とも考えられます。そうしますとそれは「父なる神の御心」からと考える事が出来ます。「憐れみ深い神の御心」からだと言う他ないと思います。神の御心によってイエスは私たちの所に遣わされて働いて下さる、という事です。それは「何故?」とか神に尋ねる事は出来ません。私たちはその質問をし易いのです。ヨブもそうでした。このヨブは神の御心のせいで、本当に極端な苦しみを受けました。この苦難は自分に何処か悪い所が在るからだとは決して思いませんでした。友人たちがやって来て、「お前が何か罪を犯したから、神が罰を与えられたのだ。だから神に謝れ。」としきりに言います。しかしヨブは頑として、自分は神に対して悪い事はしていないとその姿勢を貫き、「神様どうしてですか?」と尋ね続けます。しか し神は応えられません。沈黙を守られます。

 

それは何処か、私たちの人生に似ていませんか。どこか苦しい事が起ると「どうしてなのか、神様、何故ですか?」と問います。神を信じていない人も本当に苦しくなったら「神様、助けて!」と同時に「どうしてですか?」と尋ねると思います。でも神は何も言われません。「神は私を愛して下さる」と信じたいのですが、中々信じられません。それでも仕方なく状況を受けるしかありません。ヨブも友人たちと問答をいろいろします。そしてヨブ記の最後に神が登場されます。38章です。「主は嵐の中からヨブに応えて仰せになった。『これは何者か。知識も無いのに言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる。私に答えてみよ。私が大地を据えた時、お前はどこに居たのか。知っていると言うなら、理解している事を言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に計り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。』」こうやって神は登場されますが、ヨブの問いとは全く関係が無い事を言われます。

 

「どうして私をこんなに苦しめられるのですか」というヨブの問いに対して、「お前は何者か。この世界が始まった時の事をお前は知っているのか」と言われて、対話はトンチンカンです。ヨブの問いには答えられません。私たちも「どうしてですか」と神に尋ねても答えられないのと同じです。こんな経験を皆さまはお持ちだと思います。私たちの人生では直接の原因を幾らかは考える事が出来ます。「勉強をしなかったから」とか、「あの角を曲がらないで真直ぐに進んだからだ」とか言えます。しかし、それも何故?と考えると、段々分からなくなります。ヨブの様に大きな苦しみを受けるしかないのです。ヨブ記の1章21節を開けて下さい。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と言いますので、神はサタンに対して「ヨブは間違いを犯さないじゃないか」と言われます。サタンは「体を痛められたらあなたを呪いますよ」と2回目の苦難が始まります。「主は手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病に罹

らせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中を掻きむし った。」というひどい状況になります。

 

こんな苦難は普通には無いと思います。奥さんが「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう。」とまで言います。ところがヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。私たちは神から幸福を頂いたのだから、不幸も頂こうではないか。このようになっても彼は唇をもって罪を犯す事をしなかった。」のです。ここまで私たちは信仰深くなり得ませんね。ともかく私たちはどんな言葉を口から発しようと、神を呪うような事を言おうとも、状況を受けて行くしかないのです。それを耐えて行くしかないのです。そして神のお導きを祈る、お願いします!と祈りをするしかありません。どんなに悔しくても悲しくても苦しくても、受けるしかないのです。大震災で、大水害で友人や家族を失った人たち、家財産を失った人たち、何故私は生き残っているのかと問わざるをえません。では神は憐れみ深い神ではなかったのでしょうか。人間の苦難の状況に、憐れみ深い思いを持って居られる方を送って下さったのです。それがクリスマスの福音ですね。私たちの様子をご覧になって、ハラワタが千切れるような思いになって下さる方、イエスを送って下さった。 

 

神は私達の事を他人事としては見ておられないのです。この「ハラワタが千切れる思い」という事を沖縄では、肝苦しさチグリサと言うそうです。これを加藤夫人から教えて頂きました。加藤さんは灰谷健次郎の本から学ばれたそうです。肝が苦しくなる、これがピッタリの感じです。人の苦しい状況を見て、自分も苦しい思いになる事を、肝苦しさチグリサと言うそうで、ああ、実感が籠って、良い言葉だなと思います。そういう方が私たちの所に来て下さった、これが良き便り・福音です。そんな気持ちで、村々町々を訪ねて、病人を癒されたり、貧しい人たちを励ましたりされながら、相手の苦しみをご自分の苦しみとして受けて歩んで下さったイエスですから、ヨブは素焼きの欠片で体を掻きむしる程でしたが、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれるほどに、私たちと共に肝苦しさを受けて下さいました。その源は「憐れみ深い神の御心」です。 

エス・キリストのお働き、アーメン